朝帰り
シャワーを終えて戻ると、中川はまだベッドに横たわっていた。
それを横目にテーブルに置いたスマートフォンを開いた千津は、思わずぎくりとした。彼氏から『今、どこ?』という短いメールが届いている。
時計はもうすぐ八時になるところだった。いつもだったらとっくに帰宅している時間だった。
彼女はすぐに『ごめん、今日は残業なの。終電に間に合わなければ会社に泊まるから先に休んでて』と返信した。
「永井……起きてたの?」
ふと聞こえた掠れ声に、千津がスマートフォンを置いた。
「起こしちゃった?」
「いや、大丈夫」
隣に潜り込んだ彼女を中川が引き寄せ、触れるだけのキスが落とされる。だが、そこには熱はない。
中川は煙草に火をつけて、スマートフォンを手にした。画面を見る彼の眉が上がり、少し思案顔になった。ためらいながら電話を操作し始めた彼の指を見て、千津は思わず目を逸らした。
彼が連絡している相手は付き合っている彼女だろう。
戸惑いながら嘘をついている中川は、罪悪感で小さくなっているように見えた。
千津は自分が中川とは裏腹にすんなりと嘘をついたことで、思っているよりも彼氏を好いていないのだと気付かされる。同時に、そんな後ろめたい顔をするくらいなら抱かなきゃいいのにと、中川を恨めしくも思った。
セックスというのはまるで一種の催眠術みたいなものだ。そこに愛情がなくても、愛されているような錯覚を抱いてしまう。けれど、夜が明けて独りになったとき、その暗示はあっけなく消え失せる。心に惨めさと浅ましさという傷を残して。
相手が誰であれ、どうしていつも拒めないのか。キスをされても心は躍らないのに、体は熱を持ち、嫌だと言えずに流されて脚を開く。そのくせ、いつも後悔しているのだ。千津はそんな自分が卑しく思えて仕方なかった。
給湯室で噂されていたようなセフレはいない。その代わり、一夜限りの後ろめたい過去なら沢山ある。胸を張って噂を否定できない自分が汚れて見えた。
連絡を終えたらしい中川は、スマートフォンを置いて千津を見た。
「なぁ、明日からどうすんの?」
「さぁ。しばらくはゆっくりするけど、まずはハローワークに通わなきゃね」
「そうか……」
そう呟くと、彼は煙草をもみ消し、枕に頭を置いた。千津も隣で横になると、白い天井をじっと見つめていた。彼の手が伸びてくることはなく、すぐに吐息は寝息に変わった。二人の間にある数センチの距離が、果てしなく遠く感じた。
千津は中川に背を向け、布団を引き寄せる。
普通の人は、きっと好きな人と抱き合ったら嬉しくて気持ちよくて、幸せなのだろう。こうして隣で寝ているときも、こんなに寒々しい気持ちになどならないはずだ。
なのに、自分はどうだろう。体を重ねるたびに空しくなるばかりだった。始まりを間違えたから、その後の道も間違いだらけなのだろうか。初めてのキスやセックスが喜びに満ちたものだったら、まともな恋愛が出来ていただろうか。
三十路までのカウントダウンも始まっている。けれど、こんな根無し草のような関係しか築けないくせに、誰かと結婚して幸せになるなんて、夢のまた夢のような気がした。
千津を起こしたのは、中川の動く気配だった。時計に目を走らせると、朝の七時になるところだった。
「永井、起きた?」
彼は床に転がったままだった衣服を身につけながら、申し訳なさそうに言う。
「ごめん、朝飯でも食べに行こうって言いたいんだけど、今日は約束あるから早めに帰らなきゃ」
そう言われて、今日が土曜日だったと思い出す。会社が休みでも、きっと彼女と会う約束があるのだろう。
「いいよ。私も帰らなきゃ」
そう言ってスマートフォンを見ると、彼氏からの返信はなかった。
二人は身支度を調えるとホテルを出て、車に乗り込んだ。朝の空気に包まれる街は寒々しく、人のいない通りを見ていると、この世に二人きりになった気がした。
けれど、中川は彼女のところへ、そして自分は彼氏のところへ帰るのだと思うと、ため息しか出なかった。
どうしてホテルへ向かう道で、中川が彼女よりも自分を選んだように錯覚したのだろう。優越感に浸ってまた道を誤った自分を心の中で罵った。
何度こうして後悔すれば道を正すことができるのか。千津はそっと唇を噛みしめた。
中川はアパートまで送ると言ったが、千津は最寄り駅で降ろして欲しいと言い張った。駅からアパートまで徒歩十五分ほどあるが、二人でいるところを誰に見られるかわからないし、少し独りになって頭を冷やしたかった。
駅のロータリーで、千津はシートベルトをはずし、中川を見つめる。
「じゃあね」
「おう」
交わした言葉はそれだけだった。またね、と言わない彼に少し微笑んで車を降りた。
背中越しにエンジン音が遠ざかる。振り返ることもなく、千津はアパートに向かって高架沿いに歩き出した。
これは割り切ったことなのだと、彼女は紙袋を持つ手に力をこめた。思い出すのは、ベッドで中川を名前で呼んだときの彼の困ったような笑みだった。その顔を見て、千津は黙り込み、中川も結局、最後まで千津を名前で呼ばなかった。
二人はそこで互いに線引きをしたのだ。項垂れる千津は足を引きずるように歩いて行った。
見慣れた街は人通りもなく、遠くで新聞配達のバイクの音がするだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます