トラウマ
二時間後、千津はホテルのベッドで、うたた寝をする中川を見つめていた。
初めて見る寝顔は思ったよりもあどけない。熱情のまま自分を求めた男の顔は、今では子どものように無邪気だった。
シャワーを浴びようと起き上がった途端、立ちくらみに襲われる。うめき声を堪え、少しの間じっとすると、いくらか気分がよくなった。
足を引きずるようにバスルームへ行くと、巨大な鏡に映った顔を見る。ここ数日ろくに眠れていないせいか、目が落ちくぼんでいる。食事もまともに摂れず、一週間で三キロも体重が落ち、コンプレックスの小さな胸はいつも以上に貧弱に見えた。顔つきも心なしかやつれている。
中川は自分を『色っぽい』と言ったが、信じられなかった。鏡の中には、精神的にも肉体的にも不健康そうで暗い顔の女が立っているのだから。
嫌悪の顔を浮かべながらシャワーを浴び、たっぷりのボディソープで体を洗った。まるで染みついた中川の匂いや感触をそぎ落とすように。
今、自分の中にある感情をなんと呼ぶべきか。それは初めてセックスしたときから、ずっと彼女が抱えてきた罪悪感のようなものだった。
千津の青春時代は地味だった。奥手で好きな人に声をかけることもできず、ただ遠くから見つめているだけの日々が無駄に流れていく。
もじもじとしているうちに、お似合いの美人が意中の人の傍らにいつの間にか寄り添っているのを見つけ、人知れず泣くのを繰り返した。
そんな性格なのだから、男子と手をつないで帰ったり、制服デートしたり、キスをするなど妄想だけの世界に過ぎなかった。
ときには『好きだ』と言ってくれる人もいたが、どうしても好きな人でないと嫌だと心が拒否するのだった。
その内気な性格は変わることがなく、大学生になっても腰は引けたままで合コンやサークルに参加する気になれなかった。
講義室や廊下で見かける男性にみとれることはあっても、空しく四年が過ぎていく。行動がなければ、白黒の世界はバラ色に輝くこともなく終わるだけだ。それに気づいたのは、残念ながら大学を卒業してからだった。
そんな彼女を変えたのは、高校時代の友人だった。仲間内の飲み会の最中、彼は誰もいない隙を見計らって千津にキスをした。
「ずっと好きだったんだ」
そう言って、彼は二次会で隣に座り、テーブルの下でずっと千津の手を握っていた。
今まで誰も飛び越えてこなかった垣根をやすやすと突破されたせいか、千津は気圧され、同時に舞い上がってもいた。
解散すると、彼は千津を送るといってタクシーに乗せ、運転手にホテルの名を告げた。千津は拒むことはなかった。
今まで、千津は彼を一度も異性として見たことはなかった。それなのにタクシーの中で「降ろして」という言葉を言えなかったのは、こんな自分でいいのかという驚きと、セックスへの好奇心のためだった。大学を卒業してもバージンだということがコンプレックスでもあったのだ。おまけに、ファーストキスを思いがけなく奪われたことで自棄にもなっていた。『初めて』にこだわらなくてよくなったのだ。
初めてのセックスが怖くなかったと言えば嘘になる。だが、流されるままにベッドに組み敷かれ、体は本能のままに動いた。
やがて、千津は隣で煙草をくゆらせる男を見て、『こんなものか』と落胆した。心は何も感じず、ただのピストン運動にしか思えなかった。
ホテルを出るまで、彼はまるで恋人のように接していた。千津が自分のものだと言わんばかりの勝ち誇った態度にも見えた。
だが結局、彼とはそれっきりになった。千津の心が動かなかったせいではなく、すぐ彼には他に付き合っている女がいたと知ったのだ。
それ以来、千津は誰とセックスをしても、そこに喜びや幸せを見出すことができずにいた。今まで誰とも手を繋ぐことすらせずに生きてきたのが嘘のように、言い寄ってくる男が増えたが、何故か既婚者や彼女がいる男ばかりだった。
けれど、それを知っていてもベッドへの誘いを断ることができないのだ。それを拒んだら、自分が誰かから求められているという事実まで否定するような強迫観念が拭えない。そして決まって朝になって後悔するのだ。
一夜限りの出来事を繰り返し、やっと初めてきちんと付き合った美容師の彼とは半年でもう倦怠期だ。
同棲している彼と初めて抱き合ったとき、嬉しくはあった。だが、すぐに欲望を吐き出すか、愛情をつなぎ止める行為にしか思えなくなった。満ち足りた想いのするセックスなんて、どこにあるのか。誰かと体を重ね合うたびに、彼女は空虚に満ちたため息を漏らすのだった。
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