よろめき
中川の車は千津を乗せ、アパートへの道を走っていた。一月でも雪が降らない地域ではあるが、風は刺すように冷たい。車で送ってくれるのは正直ありがたかった。
中川は最も千津と気が合う同期だった。曲がったことが大嫌いで面倒見もいい。人柄もよければ顔も整っていた。
入社して半年もたつと、千津は彼を意識していた。だが、彼はその直後に隣の課の女性社員と付き合い始め、今では結婚も秒読みかという噂だった。
「私を送っていったなんて知ったら、彼女はいい顔しないと思うけど?」
車窓に流れる景色を見ながら呟くと、彼は「大丈夫だよ」と笑う。だが、すぐに真顔でこう訊いた。
「人の心配より、自分の心配をしろって。なんで退職なんかするんだよ」
「なんでって……なんかうんざりしちゃって。疲れちゃった」
噂話をする涼子の声が思い出された。
彼女は男にいい顔をするタイプで、決して女性から好かれてはいない。しかし、男受けのよさからエリート組との合コンも多く、一緒にいると得をすると考える取り巻きが何人かいた。
こういうタイプを敵にまわすと厄介だと察した千津は、我が儘な彼女と適度な距離をはかるのに苦労していたものだった。
ショックだったのは、自分が噂で悪者になっていたことでも、セフレが沢山いると思われたことでもない。あれだけ気を遣ってきたのに、悪い噂一つで簡単に切り捨てられる脆い人間関係が面倒になったのだ。
「これからどうするんだよ」
「別に……何も考えてないけど」
中川は何か言おうとしたが、すぐに口を閉じた。車が人気のない道路脇に停められる。
「どうしたの?」
そう言った途端、ぐっと肩を掴まれた。驚いて息を呑む彼女を、中川が覗き込むように見つめている。
「本当に大野係長と不倫したの?」
「してないよ!」
思わず大声を上げると、彼は今まで見たことがないほど苛立った顔をした。
「じゃあ、なんで逃げるみたいに辞めるんだよ。なんで何も言い返さないんだ」
千津がふっと視線を逸らす。
「……セックスはしてないけど、キスはしたから『何もなかった』とは言い切れないじゃない」
「いつ? なんで?」
そう短く問い返す中川の声は尖っていた。
「新年会の一次会で、会場を抜け出して友達と電話してたの。そしたら係長が……」
そのとき、近づいてきた大野に気がついた千津は、慌てて通話を切った。
『永井さん、ここにいたの。みんな探してたよ』
『すみません、係長。すぐに戻ります』
その瞬間だった。大野の唇がふっと千津の口を塞ぎ、耳元で囁く声がした。
『もう少し、二人きりでいたいけどね。今度飲もうね』
彼は口止めをするように、人差し指を唇に当てて会場へ戻っていったのだ。
そう話すと、中川が嫌悪感に顔をしかめた。
「お前、それを誰かに見られたんじゃないの? あの写真撮られたの、その後だろ?」
「わかんないよ」
千津は泣きそうになるのを必死に堪える。
「愛妻家って評判の大野係長があんなことするなんて思わなかったし、それに二人で会うこともなかったの。誰があんなことしたのか知らないし、知りたいとも思わない」
最後のほうは声が震えた。
「どうして私がこんな目にあわなきゃならないの? どうして私なんかに手を出すのよ? 広瀬涼子とかもっと可愛い子がいるじゃない」
千津がそう涙をこぼしながら呟いたときだ。中川が荒々しく彼女の口を唇で塞いだ。目を見開き抵抗しようとしたものの、彼の腕は痛いほど千津を抱きしめて離さなかった。
中川が唇を離して囁く。
「お前、自分が色っぽいの知らないんだよな。無防備なんだよ」
「何をするのよ?」
「しかも鈍いんだ。入社したての頃、俺がお前に惚れてたの、知らないだろ。お前がいなくなるの、嫌だよ」
そう言って、また唇が重なる。大きな手が千津の背や胸の膨らみをなぞりだした。
「待ってよ、ねぇ」
同棲している彼や、中川の彼女の顔が脳裏をよぎる。このまま身を任せたら駄目だ。そう思っているのに、「やめて」という一言が声にならない。心と裏腹に体の芯が熱くなる自分が浅ましく思えた。
「待たない」
中川はそう呟くと、また車を走らせた。左手で千津の右手をしっかりと掴んだまま。
車がホテルの駐車場に停まっても、千津は「帰る」という一言を言い出せずにいた。不実なことだと自分を戒める一方で、優越感にも似た奇妙な満足が彼女を支配し始めていた。
かつて恋い焦がれていた男が、自分を求めている。こんな自分を欲しいと、情熱的なキスをしてくる。そのことが千津の理性を麻痺させた。
ホテルの部屋はありふれたものだった。ガラステーブルに車のキーを置くと、中川は千津を抱き寄せ荒々しくキスをする。
ほとばしる衝動を持てあますようなキスが次第に味わうようなものに変わると、彼の大きな手がスカートをまくしあげ、太ももに伸びる。
小さな吐息まじりの嬌声が安っぽい照明で溢れた部屋に響き出す。
中川は彼女をベッドに組み敷き、慣れた手つきで服を脱がしながら止まないキスを降らせた。
湿った音が聞こえだした頃、暗がりの中で、彼が唇の端にかすかな笑みを浮かべたのが見えた。それはまるで千津を吟味し、楽しんでいるようでもあった。
征服への恍惚と満足を感じ取ると、千津は、自分の顔にも同じものが浮かんでいるんだろうと目を閉じたのだった。
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