第13話 廃墟街を彷徨う
トラックを降り、力任せにドアを閉める。乾いた風が頬をなで、ぼくたちのうしろに吹きぬけていく。
戦火に燃えたスィフルの町並みは、あの日、ぼくがあとにした廃墟のままだった。沈みゆく夕陽が、あの日と同じように、町を血の色に燃やしている。黒く焦げた建物の影が、ゆらりゆらりと揺れていた。ぼくのなかの悲しみ同様、町の風景も、一年半前となにも変わってはいなかった。
ぼくと親方は、彷徨うように町を歩いた。建物は崩れ、瓦礫で路がふさがれているなか、必死で記憶の路筋を辿る。無数の朽ち果てた建物の迷宮、車の残骸の無限回廊――町が生きていたころの面影など、もはや何処にもない。なにかが砕ける音がして、足もとを見たら、人間の子供の頭蓋骨がまっぷたつに割れていた。
「
親方の声に視線を上げると、黒く焦げた建物と建物の隙間に、ブルーと白を交互に配色させた円屋根の礼拝堂が覗きみえた。
マジッドの遺した風景画のとおりだ――この近くに、ジブリールの住んでいた館がある筈だ。
「親方。近いな」
「……ああ」
「どうしたんだ。貌色が悪いぜ」
「……運命じみたものを感じるんだ。マジッドの右手をめぐって墓荒らしを追えば、その右手は一年半前おれが売り飛ばしたジブリールの右手だった。マジッドの遺した風景画を手がかりに辿り着いた町は、おまえの故郷、スィフルの町。偶然がかさなりすぎて怖いんだ。まるで、ジブリールの亡霊に導かれてここまでやって来たみたいだ……」
ただの偶然だ――そう吐き捨ててやりたかった。だけど、赤々と染まる廃墟の町並みを歩いていると、なにか恐ろしい運命の罠にみずから飛びこんでいくような気分にならないでもなかった。時間の感覚が狂って、一年半前の戦火に灼け落ちた故郷に戻ったような、そんな奇妙な違和感を覚えていた。
「酒が切れやがった」
親方が、苛立たしげに吐き捨てる。真っ赤に染まった親方の額には、大量の脂汗が浮いていた。
「酒? 酒がなんだってんだよ」
そういったぼくを、親方はぎろりと上から睨みつけた。まるで別人のような、血 走った眼で。息を呑んで見上げるぼくに、親方は低い声で吐き捨てた。
「ザイド――この仕事が終わったら、おれを殺そうと思っているだろう?」
心臓を摑まれた気がした。親方はふたたび前をみて、にやにやと嗤いだした。
嗤い?――いや、それは恐怖とも嗤いともつかぬ、すさまじい形相だった。
「屍体売りって商売も因果なもんで、人から怨まれるよなあ。客から感謝されたことなんて一度もねえ、バラバラにされた屍体は口が利けねえだけで、心中は怒り心頭だろう、神がいるってんなら、神にもきっと怨まれてるぜ。そして仕事の相棒にも、怨まれているってわけだ」
親方の眼つきは正気のそれではなかった。親方は力なく、それでも足を止めることなく歩きつづけた。まるで、目隠しをされて処刑場に引かれる囚人のように。
「どうしたってんだよ、親方……」
「屍体売りって仕事は、蛆の群れのように人の心を蝕む。金は貯まった、貯まったけど、もっと大事なことがあったのかもなあ。もっと大事なものを、失っちまったのかもなあ……」
ぼくもけっして歩を止めず、廃墟の迷宮を歩きつづけた。親方と視線を合わせないまま、ぼくはいった。
「金がいちばん大事だってぼくに教えてくれたのは、親方だぜ」
「そう」親方は声を上げて嗤った。「一年半前――おれはたしかにそういった。この町で、ザイド、おまえにそういったんだ。金があれば、おまえの両親は助かった。安全な街に避難し、けがをしても医者を呼びつけられただろう、ってな。でもなあ、いくら金があっても、おまえに両親への心がなければ。両親のために金を使おうっていうおまえの心がけがなければ、どっちにしろおまえの両親は助からなかっただろう……」
「……」
「心は金に先立つものなんだ、いつだってな。いくら金儲けのためとはいえ、心を犠牲にしてまで、こんな商売をするべきじゃあなかった」
ぼくたちは黙りこんだ――ふたりの跫音だけが、ぼくたち自身を追いかけるように廃墟の町に響いていた。
何処へ向かっているのだ? ぼくたちはいったい、何処へ向かって歩いているのだ?
わからなかった。足がじぶんのものでなくなったような、感覚と躰が引き剥がされたような、そんな奇妙な感覚だけがあった。
「……ぼくたちには、仕事を選べる余裕なんてなかっただろ。生き方にきれいも汚いもない、生き抜くことが大事なんだ。ドブの水をすすったって、鼠の肉を喰ったって」
「ジブリールも、おれを怨んでいる」親方はぽつりとそういった。
「ジブリールが? いったいなにをいっているんだ?」
親方はついに歩を止め、その場でがくがくと慄えだした。
「殺される。おれぁ、ジブリールに殺される。あいつはおれを怨んで出てきたんだ。あいつの命より大事な右手を斧で切り落としたおれを、怨んでねえわけがねえ。ジブリールだけじゃねえ、おれはいままで何千もの屍体をバラバラに解体して、それを売ってきた。そんな人間が、まともに生きられるわけがねえんだ。殺される。あいつらは、なにも悪いことなど、していなかった、なのに死んだら八つ裂きにされた。じゃあ、おれみたいな悪党は、どんなふうに殺される? 屍体はどんなふうに惨たらしく扱われる? おれにはわからねえ。わからねえんだ、なあ、ザイドよ――」
親方の黄色くよどんだ眼つきは、赤い虚空をみつめ、慄えていた。そのようすは、あきらかに、正気じゃなかった。ジナーザの街の広場で会った、物乞いの眼つきと同じだった。いま思えば、おそらくぼく自身も、そうだったのではないだろうか。どだい、同胞の屍体を切り刻んで売るなんて仕事が、正気でできるわけがないのだ。ぼくたちは、確実に、狂いはじめていた。もういつからか理解できないほど、以前から。
屍体売りの仕事に就いた者は、ひとりの例外なく精神を破綻させる。親方の鉄の魂ですら、酒の力なくしては平静を保てないほど、少しずつ、確実に壊れていたのだ。
「知るもんかよっ」鼻まで覆ったストールのなか、ぼくは声を荒げた。「ぼくはあんたを信じてついてきたんだぞっ。なのに……それなのに、ぼくにそんなこと訊くなよ……ッ」
親方の弱気な姿なんか、みたくはなかった。ぼくは親方のことを、心の底から憎んでいた、だけど、それでも一方で、この戦争で傷ついた荒んだ世界を逞しくしたたかに生きようとする親方に憧れ、尊敬していたから。ぼくは、かれを怨んでいた。かれは、最低の人間だった。だけど、それでも親方は――家に見捨てられ、育ての両親アフマドさんとハディージャさんも亡くしたぼくにとって――唯一の生きる手本だった。ただ一本残された、道しるべだった。
生ぬるい風が、ちろりとぼくの頸を舐めた。
気がつくと、見覚えのある風景のなかに、ぼくたちは立っていた。錆びついた戦車の残骸が、化石のように佇んでいた。石畳の路地に、燃え落ちた屋台と子供の白骨が、まるで前衛芸術のように野晒しに飾られている。崩れた建物のむこうに、
褐色の石造りの建物は、中央から巨人に踏みにじられたように崩落し、いまにも音を立てて崩れそうだった。ところどころに口を開ける窓たちは、
まちがいない、ここだ――ぼくは背すじに冷たいものを感じていた。
亡霊に導かれている――だって?
親方が、そう感じるのも無理もない。なにかとてつもなく大きな力が、大河の急流のようにぼくたちを呑みこみ、ここまで運んできたような、そんな感覚だった。
ぼくは、ごくりと唾を呑んだ。
そのときだ。
廃墟の二階の窓に、うっすらと人影が覗いた。
いや――気づかなかっただけで、ずっとそこにいたのだろうか。
暗がりで、表情はおろか、貌さえもわからない。
だけど、やつはたしかに、ぼくたちをじっと見下ろしていた――この国で邪眼とされる、呪わしい青い片眼で。なにかを伝えたげなようすで――ただ、じっと。
「ジブリール」
ぼくはその名を消えゆくような声で呼んだ。
さがしもとめていた邪眼の墓荒らしに、ついに会うことができたのだ。
もう逃がさない――ぼくはやつを睨みつけたまま、親方にそっと声をかけた。
「幽霊だの呪いだのが怖くて、屍体売りが勤まるもんかよ――しんきくさい話はあとだ、親方。ジブリールのやつを追い詰める」
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