第8話 邪眼

 ジナーザの街――それはとても美しい街だった。古色蒼然とした石造りの建物が並び、まるで街全体が遺跡のようにみえる。一方で古めかしい土色の街並みは、華美な看板で彩られ、みごとに近代的な生活感と共存していた。そのふしぎな調和とわずかな違和感が、この街に奇妙な味わいをもたらしていた。

「旧市街は路地がせまくて車は入れねえ――ここからは歩いたほうがいいな」

 トラックのドアを閉め、ぼくらは石畳の路地に降り立つ。周りに群がる陰気な大道芸人や物乞いたちに構わず、ぼくたちは旧市街に隣接する市場スークへと向かった。

 街は都と比べると、ずいぶん活気がないようにみえた。大勢の男手が戦争に狩り出されているせいだろう――、そう考えたのも束の間、じっさいに市場スークへ足を踏み入れると、ぼくたちはこの街にまったくぎゃくの印象を持ち直さざるをえなかった。

 旧市街に隣り合う迷路のような市場スークは、都と同じ――いやそれ以上のにぎわいを見せていた。商人も客もほとんどがヴェールで貌を隠したアバヤ姿の黒い女たちだ。戦争で男が大勢死んだのを埋め合わせようとしているのか、もともと女とは男がいなければそういうものなのか、みな男のように逞しく、生き生きとふるまっていた。街のあちこちにハイヤーム大統領のポスターが貼られ、そこには赤い文字で「神と祖国のために」と殴り書きされている。

「青い瞳の男をさがすんだ。屍体売りをやっているかもしれん」

 親方が眼を光らせながらいった。ぼくはそれに従い、辺りを注意深く見まわす。

 金細工、香水、香辛料、オレンジの木の家具や椰子の木でできた手編み籠。市場にはさまざまな店が並んでいたけど、屍体売りの店は見当たらない。そもそも屍体売りは、もっとさびれた日陰の場所を選んで店を出す。とてもこのジナーザのような街の雰囲気では、店など出せやしないだろう。客や店主、騾馬たちで溢れる雑踏に眼を走らせても、ターバンで貌を隠しているという青い眼の男は見当たらない。

やがてぼくたちは市場スークの突き当たり――街の中心にある礼拝堂マスジドに出た。

 礼拝堂マスジド前の広場にはナツメヤシの木が青く生い茂り、木陰には頬のこけた物乞いが佇んでいる。

 ぼくたちはかれに近づき、紙幣を一枚、手渡した。物乞いはぼくたちを見上げもせず金を受け取ると、すばやくそれを懐にしまいながらいう。

「ありがとうよ、ありがとうよ、あんたたちに神の御加護がありますように」

「神の加護が欲しくて施しをやったわけじゃねえ」親方は苦嗤いで髭を揺らす。「おまえさんに、ちょいと簡単な質問があるんだ」

 物乞いはそっと陽に灼けた貌を上げる。その黄色い眼が、ぼくらをじろりと見まわした。

 すかさずぼくが親方の話を引き取る。

「青黒いターバンを貌じゅうに巻いた男を見なかったか。屍体の右手を持っていた筈だ」

 ふいに、物乞いの表情が曇った。

「あんたたち――やつの知り合いかね?」

「追っているんだ。そいつは墓荒らしでね。知っているんだな?」

「夜明けまえに会った」物乞いはごくりと唾を呑んだ。「屍体の右手を脇に抱えて、無言でおれを見下ろしていたんだ――砂埃にまみれた外套を、風にはためかせながらね。いやな臭いがぷんぷんした。屍体の臭いが、やつの躰じゅうに、染みついてやがるのさ。やつは、画家のマジッド・ムワッファクのアトリエをさがしていた。自殺したっていう、例の画家さ。マジッドは、いけすかない野郎だったね、やつの癇癖は、このジナーザの町でも有名だった。画を描いてる最中に、隣室の住人が物音でも立てようもんなら、血相変えて怒鳴りこんでけんかになる始末。そんなことがしょっちゅうだったから、両隣りの住人はたまらず引っ越して、空室になったぐらいさ。

 画商でもあるまいに、そんな男のアトリエにいったいなんの用だと訝りながら、おれはターバンの男にマジッドが住んでいたアパートを教えてやった。やつは無言のまま身を翻し、消えたように見えると三歩先を歩き、消えたように見えると七歩先を歩き、いっときも眼をそらしていないにもかかわらず、いつのまにかおれはやつの姿を見失っていた。まるで夢でも見ているようだった、蜃気楼みたいに跡形もなく、夜明けまえの闇に溶けて消えやがったんだ……」

 ぼくは無言できき入っていた。物乞いの表情は真に迫るもので、冗談やこけおどしをいっているふうではなかった。

「墓守ラシードも、同じようなことをいっていたな。何者なんだ? その男は」親方が不機嫌そうにいう。

「薄気味悪いのは、あの眼つきだ」物乞いは、じぶんの眼を指さしながら言葉をつぐ。「ターバンから片方だけ覗く左の瞳の色が、夜の海のように青かった。やつの瞳に映りこむおれの貌が、まるで死人のように蒼ざめてみえたんだ。しかも、右眼をターバンで隠しているのかと思ったら――そうじゃあなかった。ターバンの隙間から、ちらりとみえた、おれは背すじが凍ったよ――やつは片眼だった――もう一方の右の眼窩には、眼玉なんてもともとありゃあしなかったんだ。からっぽなのさ。――ありゃあ、噂にきく邪眼だ」

「邪眼?」

「見つめた相手に災いをもたらす、呪いのまなざしのことだ」親方が代わって答えた。「邪眼の伝承は世界じゅうにあるが、その起源を辿ればすべて、に行き着く。辺りをみな、ザイド。ヴェールで貌を隠した女が何人もいるだろう。ありゃあ、邪眼に呪いをかけられるのを避けるためさ。蛇の眼や老婆の眼――邪眼とされる眼はいろいろあるが、なかでもこの国じゃあ、青い瞳や片眼がもっとも不吉とされているんだ」

「くだらない。ただの迷信だ」ぼくは鼻を鳴らしてそう言った。

「迷信なんかじゃねえ」

 物乞いはいきなりぼくの右腕を摑んだ。ぼくを見上げ、語気を荒げる。まるで腐りかけているかのように黒いかれの手は、まるでぼくの右腕を奪おうとしているかのようにぎりぎりと力がこもっていく。

 物乞いは、息を乱しながら言葉をついだ。

「現にいま戦争している『自由の国』の敵兵の瞳は、ひとり残らず青いだろう? やつらのおかげでどれだけの災いがこの国に訪れた? けさ会った、ターバンの男の眼も、敵兵と同じ青い瞳だった――しかもそれがよりにもよって片眼だときていやがる! 思い出すのも忌まわしい、この世のすべてを憎むような眼だ。悪意だとか、敵意だとか、そんなかわいらしいもんじゃねえ。ありゃ、殺意の眼だぜ。心の奥底にしまいこんで、隠しとおしてきた罪の数々を見透かすような眼――いままで犯したすべての罪を眼のまえに引き摺り出して、断罪するかのような眼だった。アトリエの場所を教える代わりに金をたかろうって気にすら、なれなかったよ。答えなければ殺される――そう思ったんだ」

 物乞いのかおは、みるみる蒼ざめていく。真夏だというのにがちがちと歯を鳴らし、その痩せた躰はふるえている。かれの大きな黄色い眼は、よく見るとぼくたちではなく、ぼくたちの背後にある虚空を見つめていた。ぼくはその異様なようすに一瞬、言葉を呑み、必死に右腕を摑む物乞いの大きな手を払いのけた。

「さっきの話の、マジッド・ムワッファクのアトリエってのは、何処にあるんだ?」こんどは親方が物乞いに訊ねる。

「アトリエ。マジッド・ムワッファクの」

 物乞いは凍えたようにうつむき、頭を抱え、そしてなにやらブツブツと呟きはじめた。

 ぼくは苛立って返答を急かした。

「おい、知ってるんだろ? なにいってるのか、きこえないぜ」

 瞬間、物乞いの鳴らす歯の音が激しくなった。物乞いは貌を上げた――その眼つきは狂犬のようにぎらぎらと光っていた。

「ゆるしてくれ」物乞いはぽつりとそういった。そして、虚空に向かって、叫びはじめた。

「ゆるしてくれ。ゆるしてくれ。おれ戦場でよお、何人も殺したよ。青い眼の敵兵を、何人も殺したよ。でも仕方なかった、仕方なかったんだ、だってみんなそうしてたじゃないか。おれだけじゃない、みんながそうしていたんだ。仲間がつぎつぎに殺されて、殺さなきゃ、殺されるって、殺さなきゃ、殺されるって、あああああああああ土埃のなか敵兵の影がおれに近づいて、恐怖のあまり引き金を引いたら、それは見慣れた味方の兵士だった。そいつはおれと眼が合って、血を吐きながら仆れこんだ。あの最後の絶望のまなざしを、どう形容すればいいだろう。まるで邪眼みたいに冷たいまなざしだったんだ。ああ、やつは若かった、まだ少年といってもいい歳だった。結婚したばかりの、子供ができたばかりの、いつも家族のもとに帰ることだけを考えていた、やさしい男だった。残されたあいつの家族に、おれはなんて詫びればよかっただろう? 幼い赤子を抱えるあのうら若い奥さんに、なんて詫びれば許されただろう? あいつはいいやつでした、おれは奥さんにそういった、だけどおれがあいつを殺したってことは、最後まで打ち明けられなかった、奥さんは、主人がお世話になりましたと深ぶかとおれに頭を下げた、ああ、とてもいえやしない、おれが、この真っ黒く罪に染まった手であいつを殺したなんて! でも、だけど、あいつはいいやつだった、その気持ちは掛け値なしにほんとうだ、それだけは嘘じゃない、いいやつだった、いいやつだったなあ、あいつはほんとうにいいやつで、おれがあいつをこの黒い手で殺したんだ!」

 物乞いの貌は、泥のような脂汗に濡れていた。その眼つきはもはや、正気のそれではない。

「すまねえ。すまねええ。ありゃ、邪眼だ。夢に見るのが怖くて、もう何年も眠れねえ。いままで殺した青い眼の兵隊ども見詰められるんだ。そのなかにあいつも雑じっているんだよ――!」

 金属がこすれ合う音が響いた――慄える物乞いの首に、鎖で吊るされた銀色の金属片がきらりと光っていた。

「おい、ザイド。その認識票」

 親方がいい終えるより早く、ぼくは物乞いが首から下げた認識票を摑み取っていた。

「ナズィール」その金属片にきざまれた名を読み上げ、ぼくは眼を見開いた。「あんた、ナズィールか? ナズィールなんだな? しっかりしろ! おい、いったいなにがあったんだ!」

 ぼくは物乞いの肩に手をかけた。

 物乞いはとつぜん声を上げて嘔吐した。ぼくは驚いて身を引いた。白い胃液をどぼどぼと吐き戻しながら、物乞いは虚空に向かって狂ったように詫び続けた。

「ずばえええ。ずばえええええ」

 広場を行き交う人びとは、だれも物乞いになど、気にも留めなかった。物乞いは白い胃液をすべて吐ききってもまだ悶えつづけ、咳きこみながら、ついに真っ赤な血を吐いた。

 その黒い両手は恐怖に引きつり、自身の咽喉をかきむしっている。その黒く穢れた指は、皮膚に深く喰いこみ、明らかに血管までもを傷つけている。

「よせ。やめろ。あんたのおふくろさんに頼まれたんだ。あんたを探してくれってよ!」

 必死で叫びながら、ぼくはかれの両手を押さえようとした。だけどまったく歯が立たない。物乞いの黒い両手には、ものすごい力が篭っていた。人間の力じゃ、ないみたいだった。まるで何人もの人間に取り憑かれたような、なにかの大きな歯車に動かされているかのような――そんな力だった。

「馬鹿野郎! 死んじまうぞ! あんた、たったひとりの息子なんだろうが! おふくろさんを、ひとりぼっちにさせる気かよ!」

「おふ……くろ……」

 物乞いは慄えながら、血とともにそう言葉を吐き出した。そして、ゆっくりと、その黒い両手を血まみれの咽喉から離し、ぼくのほうへ伸ばしながら、弱々しく言葉をつぐ。

「つた……えて……すま……ない、と……」

 黒いへどろのような血に濡れた手でぼくの頬に触れ――物乞いはがくりとその場に力尽きた。

 あまりのことに、ぼくたちは口を閉ざして、息を呑む。

 ぼくたちが追っている青い片眼の男に出会ったから、こうなったというのか?

 これが――邪眼の呪いだというのか?

「青い片眼……邪眼」

 親方は、腑に落ちないようすで、そう繰り返した。

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