第76話 創作物とエッセイの落差




 読む本は圧倒的に小説(フィクション)が多いが、時々息抜きにエッセイも読む。

 一話一話が短いので、移動途中や出先で少し時間ができた時に軽く読めていい。

 エッセイで読むジャンルは決まっていて、好きな作家であればなんでも読むが、それ以外だと美食もの(料理、食べ物系)と海外旅行記(海外生活)が多い。他は殆ど読まない。

 日々の関心が、食と旅(異文化への興味、或いは逃避)に大きく占められているからだろう。


 小説が面白いと自然とエッセイ(ノンフィクション)も面白い。

 しかし、エッセイを通して知る作家の人間性まで愛せるかというとそうでもなく、作品と作家は断固として別ものだと感じる。

 例えば、有名どころだと太宰治と檀一雄。

 両名が書くものはみな好きで、特に檀氏のエッセイは料理本を含めてとても面白いけれど、彼らの行動や思考に共感できるかというと……全くできない。

 二人共女性遍歴が激しく、家庭の外に子供をもうけておきながら、別の愛人と入水自殺した太宰も大概だが、檀氏もまたすごい。

 私小説「リツ子・その愛」「リツ子・その死」を読んでボロ泣きしたあと、「火宅の人」を読むと、「何やってんじゃ、このおっさん……」と怒っていいのか呆れていいのかわからなくなる。

 最初の妻・リツ子への献身と愛に大いに感動したゆえにがっかりもしたが、卓越した文章に吸い込まれるようについつい「火宅の人」を読んでしまい、またそれがとんでもなく面白いのだから始末が悪い。

 うっかり楽しみながらも、これ、当人はともかくとして当時の周囲は大変だっただろうなあ……と同情を禁じ得なかった。


 しかも、太宰と檀は酔った拍子とはいえ心中未遂をしていて、奔放な女性関係にあった両氏が男同士で心中をはかるとは本当に意味がわからない……。

 つくづく「事実は小説より奇なり」と思う。

 たぶん安全な場所から、その落差を味わいたくてエッセイを読んでいるのだろう。

 恋愛や修羅場でない作家のほのぼのとした日常話も好きである。

 好きだけど、特に語ることはない。読んで、自分もなんとなくほのぼのとして終わりである。

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