節分の季節に銀玉チョコを思うということ
豆は魔を滅する的な語呂合わせで節分には豆を撒くわけだが、そもそも追儺(『魍魎の匣』で節分の由来だと言ってた気がする)には豆撒き要素はなかったはずで、どっちかというと「境界を確定する」ことが大事だったみたいな話だった気がする。魍魎というのは黄昏時とか川とか、「境目」に湧くんですよね。で、境目をスペクトラムのように曖昧にしとくと、魍魎の湧きゾーンが増えちゃう。だからマジカルステップを以て境界を確定し、内部を清める的なことが大事なのであろうと思う。とすれば別に必ずしも「豆」を撒く必要はなく、「こっからここまでが境界ですよ〜」ということさえ理解できればそれで良いのだと思う。
何が言いたいのかというと、そもそも北海道の人ってなんかこう……爪弾きにされて来た人が多いからか、正統に文化を継いでなくて、節分には落花生撒きだすんですよね。まあ、皮があるから、撒いた後でも拾えば食えるからとか……? そういう合理性の産物なのかもしれないが、合理性つうなら節分がそもそも合理的じゃねえからな。半端に発揮すな。
しかしまあ、これはまだ「豆」撒いてるだけ文化を踏襲しようという気持ちがまだあって、うちは何撒いてたかと言うと、「銀玉チョコ」だったんすよね。あのなんか、銀紙みたいなので包まれてる、球体の堅いチョコね。何も滅せないだろ。丸けりゃなんでもいいんかい。せめてなんかナッツ入ってるチョコとかよな。フィレロ・ロシェ(カルディに売ってる金色のチョコ)とかさあ。まあヘーゼルナッツを「豆」と呼ぶ人もいないか。
と言うわけで、長じてからは、「ああ俺は節分を愚弄して来たのであるなあ」と思って反省していたのだが、なんか、この話すると、なぜか一定数「うちでもチョコ撒いてました」という人が出てくる。なんなら「チロルチョコ撒いてました」という人までいて、それは丸くすらないやろがいと思う。
てことはあれかねえ。チョコもなんか神聖さがあるのか。集団的無意識の中に、「チョコは魔を退ける」というものがあるのでしょうか。それかあれか? バレンタインデーと混ざってんのか?
というわけで銀玉チョコ食いたくなったのだが、まあ、食欲ないことにしてるので、今回は買いませんでした。じゃあなんの話だったんだよ……。いいでしょ別に。ここは食いたくなったものの話をするところ!
2023年02月03日 11時07分の測定結果
体重:102.50kg 体脂肪率:33.50% 筋肉量:64.70kg 体内年齢:50歳
豆は特に食いたくなりませんね。でも豆食うと痩せるんだよな。卵に飽きたら豆食います。それではまた。
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