純粋純粋脂肪批判批判(2)

 ごぶさたしております。


 色々なことがありましたか? そうですか。何よりです。

 こちらは主に太っていました。


 っていうのもどうかと思うんだけど、他に説明しようがないのもまた事実。辛い。悲しい。というと、皆さんはこう思うかもしれない。


「何が辛いだ悲しいだ、てめえの怠惰・堕落をそっこらに置いといて、悲劇みたいなことを言ってるんじゃあないよ、お前が悪いんだろ、このぼけなす。かす。めんつゆで溺れて死んでしまえ」

 なんてひどい。あんまりだ。


 とは言え、そう思われても仕方がない節はあって、わりと痩せに向かっているときとか、少なくとも精神的にはダイエットをしているときにはこのエッセイを更新するけれども、そうでない時、あんま痩せに向かう余裕がない時は、必然エッセイの更新がなくなってしまう。でもそれって良くないよね。


 というのは、実はこのエッセイ、こういうことが言いたいエッセイなのである。


2:デブは(必ずしも)怠惰(だけ)の結果ではない。


 この考えを覆すのはめちゃめちゃに難しい。

 「そうは言ってもデブは自己責任で、やろうったら痩せられるはずなのに痩せない、ってのは怠惰のゴミクズ」とここまで辛辣なことを思っていない人も、それに近い、同一ベクトルのことを思っている可能性は強くある。


 鉄鍋のジャン!! 2ndでもジャンがこう言ってた。

「知ってるか?

 チビは遺伝だが

 デブは自己管理能力が

 ないからデブなんだぞ」


 一理はある。あるんだけど。

 でもデブだって遺伝もちょっとあると思うんだよ。という話を序盤のほうでは延々していた。例えば体を動かすことの得意・不得意。消化酵素の発言度合い。自分の身体を認識するやり方。


 いやいや、と思うだろうか?

 私だって体を動かすのは得意ではないが、痩せちゃあいる。

 僕だってすぐ疲れてしまうが、それでも太ってはいないよ。


 それも正しい、と俺は思う。正しいっていうか、そういうこともあるよねって思う。

 ここ10年くらいに流行った考え方の一つに、「中間表現型」というものがある。これはどういうことかというと、少々思考実験にお付き合い願いたい。


 ある疾患があって、その疾患を発症しうる環境を整える。現実的には環境要因というのを完全に揃えることはできないが、まあここは思考実験の世界なので、できたものとする。あなたは神だ。そう思ってもいい。

 さて、そういうわけで特定の、完全に同一な環境下に人を置く。この環境は人に疾患を発生せしめる環境である(人だとかわいそうすぎて想像できないよ、というやさしいあなたは、あなたのやさしさに適合するレベルまで種類を落としても構わない。ねずみならいいか? 植物は? 微生物ならどうだ? 全部ダメか。

 じゃあ架空の生物、「ジューマン」というものを考えてもらおう。ジューマンの単位はたまたま「人」だが、彼らはまったく自我も持たず、当然苦痛も感じない。ただ存在し、自身のDNA情報だけを次代につなぐ、それだけのものである。まあDNAが多様である前提なので、有性生殖はするんだろうなと思うが、その生殖に関しても別に快楽とかはなくて、じゃあなんでするの生殖ってなると俺には何も分からない。

 ええっと、ジューマンはあなたが認識したときだけそこに存在する何かで、彼らの最大の快楽・喜びは"存在すること"そのものである。つまり、あなたが認識している限り、彼らは歓喜に打ち震えて、自己の状態がどうであろうとそんなことはどうでもいいくらいの法悦の中にいる。で、あなたが認識しているそのジューマンたちは、人間的な素養をかなりのところまで持ち合わせている。ただ、あなたがジューマンを認識しなくなったその瞬間、彼らは無に帰し、そして何も感じなくなる。えっなんかそれはそれで可愛そうっていうか、皆さんに業を背負わせてしまった感もあるので、やっぱやめて、架空の人たちということで許してもらうことにしよう)。


 前置きが長くなりすぎたが、とにかく、ある全く同一の環境下に架空の、非実在の人を置く。そのうち80人までは疾患を発症しなかったけれども、20人が発症したよ、という状況を考える。

 この20人の疾患を発症させたものはなんであろうか。っていうと、皆さんは自信満々・喜色満面で「遺伝子・DNAである」とお答えになるだろう。多分その答えは正しい。だってそりゃあそうやけんね。環境が一致しているのだから、違うのはその人間がもともと持っていた素因、そういうことになる。それが理屈というものである。


 ってのは現実の社会、環境にもある程度適応可能な考え方で、つまり、もちろん一人びとりが暴露される環境というのはこれ明らかに違うものであるけれども、その中に含まれる有害な因子をある程度統制したり、特定の有害因子に一定期間暴露された人ってのを連れてくると、まあまあ似たような環境で育った人集団というのをピックアップすることができる。ところが、このまあまあ似たような環境で育った人集団において、百パーセントの発症率になるものというのはそう多くはないのである。


 とても短く言うと、今の時期皆さんの何割かは花粉症に悩まされているはずである。で、残りの皆さんは花粉症のかの字もないよって人生を歩んでいる。生活年齢が一緒であるならば、大体同じくらいのスギなりブタクサなりの花粉に晒されているにも関わらず、花粉症が発症するかしないかが違う。何で違うか、というと、そらもともと持っている素質が違うからでしょう、というのは素直な推論であろうと思う。最初からそういえばよかった。なんだジューマンって。イミフ。ワロタ。草不可避。花粉症だけに。


 ってなわけで、遺伝子というものをわりにカジュアルに観察できるようになった10年前くらいから、じゃあそういう「病気になりやすい因子」つまり「疾患の原因遺伝子」を特定しようという試みがたびたびなされてきた。それで分かったことは、多くの疾患は、原因となる遺伝的素因を特定できないということである。ズコー。


 全員今砂埃を上げながらずっこけたと思うが、でもまあそういうものなのだ。残念ながら。

 

 でこれはまあ理屈に合わない話である。つうのは、そりゃあ環境というのは一見無限に見えるけれども、それは有限の線分を無限に区切れますよ、という意味の無限であって、無限の長さを持つ線分が実在しますよ、ということではなく、つまり、ある程度の範囲を○で囲ってしまえば、そのなかをいかに無限に執拗に区切ったって、その範囲自体は特定できるはずだからである。まあ囲い方が多少間違っていることはあろうけれども(次元を間違っていたとか)、それにしちゃああまりにも特定できなすぎる。なぜ。ホワイ?


 というときに出てきたのが「中間表現型」という考え方で、これは何かというと、たとえば花粉症で言うと、免疫をつかさどるなんか細胞を作るための遺伝子が、もう話をめちゃ単純にするとAタイプとBタイプがあるとする。で、これがAでもBでも花粉症になるかどうかは予想できない。ほいで次、「植物を体内に取り込んで排出する」ということに関わる消化酵素みたいなのも、これもAタイプとBタイプがある。あと鼻水を生成するための遺伝子、……などなどというものを考える。


 繰り返すが、これらそれぞれがAでもBでも、花粉症になるかどうかは決まらない。ところが、免疫がBで、植物を排出する酵素がAで、鼻水生成がB、という場合は一定量の花粉を取り込むとほぼほぼ花粉症になる、ということがあるんではないかとそういう考えである。最終的な花粉症、つまり春先になるとずるずるのでろでろになる、という「表現型」は、その手前というか、それを構成する「中間表現型」の組み合わせによって決まる、とこういう考え方である。で中間表現型の組み合わせ自体も一意には定まらなくて、たとえばA-B-A-A-Bのときと、B-B-B-A-Aのときと、……は花粉症になるけど、A-A-A-A-Aだったらなりにくいとか、そういう感じで「どの因子が関わるか」「どの因子がどのパターンで組み合わさったら疾患が発症しやすいか」っていうのは変わってくるわけである。


 でこれがデブにも適用できると俺は言いたいわけである!!!!


 つまり、あなたたちが言うところの、「そりゃあ飯を食うのは好きですけど、でも痩せてますよ」とか「運動は苦手ですけど、別に太ってないですよ」とか「消化酵素はおかしいかもしんないけど、それでも別にガリガリですけど」とか、そういうの、それはあくまで中間表現型で、それだけが因子ではないのである。それらが複合して、太りやすくなる因子の組み合わせを持って生まれてきた存在、それがデブ。そういうことなのかもしれないよと俺は言いたいのだ。


 これがデブ遺伝子が3つとかで決まってりゃあ話は早くて、サッと遺伝子検査をして、ほぉらデブ遺伝子スリーセブンで大当たり、って示せば皆さんもご同情くださると思うけれども、そういうことではないので、どうしても「努力」とか「甘え」の話がチラついてしまう。でも言っとくけど俺だって俺なりに、それなりに「努力」はしてい……るときもあって、それでも減らないという中で、それでも「今日もダイエットをしよう」と前を見て歩いているのである。これはもう中間表現型全部裏目を引いたとしか考えられないけど、それを証明するのは激ムズなので、やむなく行動、一番最終の表現系のところで示すしかないと思って示している。

 自分で言うのもなんだけど、結構偉いでしょう。これにみんながうんうん頷いて、がんばってますね、あなたは悪くない、と言わしめたいのがこのエッセイなのだ。そういうテーマなのだ。


 だからここ一ヶ月くらい更新が滞っている間、「ちゃんと3食自炊した飯を食う」みたいな誓いを破りまくってしまったというのも、これはしょうがないですね、と思って欲しいわけである。


 まず2月末に関して言えば、これはむしろ慈善・他愛の気持ちから誓いを破っていた。泣いて馬謖を斬るっていうか。


 我々は「2月が短い」と文句を言うけれども、実のところ文句を言う筋合いはないのである。というのは、俺の身近なところでちょっとした炎上事案があって、美味しんぼよろしく、「この燃え盛る石釜も、うまく使えばほら美味しいピザが焼けますよ」ってのをやりに懇意にしている飲食店に行った。なのでコレ自体はぜんぜん怠惰と言うか、暴食というか、そういうことではない。何しろ俺は風邪を引いてて、ほんとはそんなに出たくなかったんだけど、まあ良く言えば人当たりが良い、悪く言えば全員に舐められている俺がこう中心でひとを集めた方が良いのではないですか、という話になって、えーと思いながら行ったくらいのもので、ウッキウキの感じではぜんぜんない。付き合いの範囲である。

 しかも「この燃え盛る石釜も」のくだりは完全に滑った。


 それはそれとして、その炎上事案の解決に行った飲食店の店長が嘆くわけである。2月が短いのは、サラリーマンよりこういう飲食店とかなんですよ、と。

 自社ビルでもない限り、テナントの賃料というのは月額で定められており、毎月一定額を納めることになる。まあそりゃあそうというか、「そりゃあそう」以前にそのことに何の疑問も抱いてこなかったが、確かに言われてみれば2月は通常月より2~3日短い。

 2~3日、と簡単に言うが、ひとつきを31日で計算するとほぼ1割短いわけである。ところが、我々の家賃が1割引になるとかジムの会員費が1割引になるとかそういうことはない。だからちょっと損したような気もするが、反面、給料だって月給制であれば、1割労働時間が少ないのに同額を貰えると考えても良い。だからあなたは2月は短いと嘆くけれども、むしろ得なんですよとこう言う。サラリーマンはいいじゃあないですか、と。うちはテナント代が割り引かれるわけでもないけど営業日が短くて、だから日販がン十万減るのに、従業員には給料もひと月分出さなきゃあダメだし、テナント代も納めなきゃあならない。困るのよ、とこう来る。


 はーなるほどなあ、と思った。それで、俺は無私の心、還元の心、言うなれば喜捨の心、慈悲と慈愛の心でもって、ちょっと通ってしまった、とこういうことである。これはさあ、もう非難するってなったら人間社会の営みとか、そういうところから問い直すことになるわけですよ。違いますか?


 でその後、近況ノートにもちらっと書いたが、「じゃあ福島で誕生日を祝えば誰も文句はいわねーだろ」という理屈で牛タン・寿司・仙台牛などを食したのも、これもほら、一年に一度のことだから。年に一回くらい、こういう日がなくて、何が楽しいというのか? いいでしょう誕生日くらい。食いたいもの食ったって。


 ほいで皆さん、今は別れと巣立ちの季節で、この別れと巣立ちというのは会食を以って寿ぐというのはもうこれもしょうがないでしょう。若い人たちが、明るい未来を夢見て羽ばたいていく。こういう季節に、イヤァ、デモォ、太るからァ、僕はァ、キャベツをむしゃむしゃ食べますよォってのは、日本の未来を暗くする。そら俺と若者の別れと巣立ちは全然関係ないかもしれないけど、でもさ。ねえ。


  2018年03月22日 19時23分の測定結果

  体重:90.90kg

  体脂肪率:29.30%

  筋肉量:60.95kg

  体内年齢:43歳


 いやでもいくらなんでも。去年85くらいまで行ったのに、今91 kgって。それは。さすがに。そもそも「社交のために飯を食う」って話遺伝子も中間表現型も全然関係ないし。体内年齢も破滅してるし。これはヤバイでしょ。


 えっと、またやりますなんかしら……何しようかな……。とりあえず米は控えます。これにて炊論は終幕とする。

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