なぜ私はかくも肥満なのか(2)
今日の夕食はたこ焼きとハイボールであった。currently.
まだ昨日のカレーが残っているのが油断ならないところであるが、まあこれならセーフでいいんじゃあないですか。低炭水化物でしょ? (原材料の小麦粉から目を逸らしながら)(野菜が完全にゼロ)
さて、腹が減る前に昨日の続きと参りましょう。
まあ、俺にとって腹が減る、減らないというのは些末なことではあるのだけれど。
腹が減ってないのに飯を食う人間は、平和の体現者である。
ちょっと待て、ホントにそれ一周か? という突っ込みが聞こえるような気がするが、実際聞こえていたらそれは幻聴である(土屋賢二みたいな文を書いてしまった)。一周って何よ、という人は、昨日の論理の螺旋階段の話を思い出してほしい。前回の話は、「腹が減っていなくても飯を食うことは全然ありえる上に、それはコミュニケーションを前進させ、人生を謳歌するための行為である」という内容を論証したところで終わったのであった。ここまでは良く分かって頂けたことと思う。今日はこの論を進めていくことにしよう。
ということで繰り返そう。なんなら大きな声で読み上げてもらってもいい。
腹が減ってないのに飯を食う人間は、平和の体現者である。
なぜか。
人間、生きている限りストレスに晒され続けている。デブはちょっとやそっとなことでは傷つかないと思うかもしれないがそんなことはなく、君と同じだけ人生にストレスというものを感じている。まったくストレスの無い人生はそれはそれで問題があるが、許容範囲を超えたストレスに晒されたとき、人はなんとかそれを解消しなくてはならない。
さてどうやってこのストレスを解消するか?
ある者は他人を踏みつけにし、またある者は他人の欠点を探し出し、時には自分が高みに昇り、その優越感・嗜虐のこころによって自己に生じた苛立ちを解消しようとする。悲しいかなこれも一つの解決策である。正直に認めよう。俺だってそういう気分になることはある。
『俺はお前なんかとは違う』
『俺の方がお前なんかより善く生きている』
この言葉はまさに蜜であり、俺たちはどんな些細なことにも順位をつけ、自分の位置を確かめて、自分の下にどれだけの人間がいるかを確かめようとする。自分の下にたくさんの人間がいることにほっと胸を撫で下ろす。
もしもそういう気持ちだけが俺たちを救うのだとしたら、あまりに残酷すぎやしないか。俺たちが生涯争い続け、それによってストレスを感じ、それによってストレスを解消し続ける、そういう地獄のただなかにいるとしたら。
君の心に今、ちらりとよぎった悲しみ、あるいは「そんなことねえよ」という反発の気持ち。それを大事にして欲しい。それこそが本当の意味で俺たちを救うのだから。
もちろん他人を傷つけず・飯も食わずにストレスを発散する方法はあまた存在する。
創作物を鑑賞する、あるいは創作する(詩吟、本、漫画、TVプログラム、戯曲、映画、ミュージック、アンド・ソー・オン。ここにいる諸君には最も親しみのある行為だろうか)。
体を動かす。
風呂に浸かる。
軽い賭け事に興じる。ビデオゲームの世界に浸る。書を捨てて、街に出る。
ショッピングをする。着飾る。天体を観測する。野に咲く花に想いを馳せる。静かな祈りを捧げる。暖かく心のこもった言葉を交わす。まだ誰も知らないことを知って、世界の闇に光を照らす。君が愛し、君を愛する人と固く抱き合ってお互いを認め合う。
どれも素晴らしいことだ。
そしてどれも否定されるべきことではない。そうですよね。
これとぴったり同じところに「飯を食って元気を出す」という行為が存在するのである。少なくとも、腹が減っていなくても飯を食う派の人間にとっては。
君は君が好きな本を読みたいと思っているはずで、だから君が好きでない本を強制されることを好まないと思う。君が好きな音楽を聴きたいのであって、他人が好きな音楽を聴きたいわけではないだろう。君だけが知っている星座を鑑賞したいのであって、誰かに押し付けられた星座なんてなんの意味も持たないはずだ。君は君が愛する人を抱きしめたいと心から願い、君を愛さない人をわざわざ抱き取りに行きたいとは思わない。
それとおんなじことなのだ。
腹が減っていなくても飯を食う人間は、その行為によって傷ついた心を癒したい。乾いた何かを潤わせたい。ささやかにそう願っているだけのことであるのだ。そして、その行為には代替はない。
そんなものは無価値な癒しポルノであると誰かが罵ったとして、君がその手に持った本を捨てる必要はないし、捨てたくもないし、そいつが言う「価値のある」書籍になんて価値を見出せないのと同じように、腹が減っていなくても飯を食う人間は、一日を最近出来たたこ焼き屋に行くことを夢想することでやり過ごしている。そのたこ焼きというのは、あくまで心の支えであって、そのほかの食事とは本質的には無関係なのだ。たとえその直前に、空腹を満たすためだけに牛丼を掻き込んでいたとしても、それはそれ、たこ焼きはたこ焼き、なのである(※1)。
腹が減ってなくても飯を食う。他人を傷つけないために。他人を足蹴にしないために。すべての人間と対等な心で向き合うために。
君が食事以外の行為でそれをしているように、食事にそういうことを見出す人種というのが、確実に存在するのである。
そしてそのような人間が「太る」ということは、果たして責められるべきであろうか?
だってそうでしょう。
一人のうつくしい少女を想像して欲しい。
彼女は小さな代わり映えにしない世界に閉じ込められている。
何度も何度も何度も何度も繰り返す無限とも思える循環の中にいる。
一昨日と昨日と今日と明日と明後日はまったく同じだ。
そんな少女が、「本」というものを手にした。
本は少女の生活とはぜんぜん違う。彼女の生きる退屈で無色の生活とは、まったく。
本の世界は色とりどりだ。活気があふれ、鮮やかに、万華鏡のようにいろいろな世界を見せてくれる。とても素敵な世界で、彼女は読書にのめり込む。
この少女に、君は、「本ばっかり読んでいると、不健康だし、目が悪くなるので、やめた方がいいよ。そんなくだらない本なんて捨てて、外に出なさい」って言えるか? 言えないでしょ?
この問いは、「腹が減らないけど飯を食う派」の人間に、「いや、そうは言うけど太るのは分かってるんだから、飯食うの減らしなよ。あるいは酢昆布でもかじってなよ(※2)。他のことで欲求を満たしなよ。世の中にはいろいろ娯楽があるんだから」と言えるか? という問いかけとまったくぴったり完全に同じなのである。照合の型に"TRUE"を使ってもちゃんと参照されるくらい、同一性は高い。
俺たちはその道を選んだのだ。あるいは、選ばされたのだ。何によってかは分からない。遺伝子であるのかもしれないし、神の御心なのかもしれない。環境によって後天的に得たものであるのかもしれない。しかし、好むと好まざるにかかわらず、俺たちは「飯を食う」という道をもうすでに選んでしまったのである。俺の心と、他の人類の平和のために。
まだ納得のいかない人のために、もう少し補足をしておこう。
人間の三大欲求は、食欲・睡眠欲・性欲だと言われている。ひとつひとつじっくり見ていこう。あとマズローのことは一旦忘れよう。なぜなら話がややっこしくなるからである。既に大分迷走しているというのに。
これらの欲が満たされない時俺たちはストレスを感じ、欲が満たされることでストレスが解消される、と仮に定義しよう。
まずは性欲である。まさに欲求不満の中心にあると宣言したのはフロイトであり、原始的な欲求であるかもしれない。だからこそ、この性欲というものに最も真剣に取り組むべき、という意見もあろう。しかし、人間はどうやら大脳新皮質を肥大化させすぎた。もっとシンプルだったら良かったのだけれど、この欲求に真剣に取り組むことには、様々な問題がつきまとう。
まず君がそもそもうら若い人間である場合、これは一般にそう容易なことではない。やや年を経るごとに、その解消は一見容易になるが、実はそうでもない。
性欲の充足にはなんらかの対価が必要で、この対価としては人間関係の構築・金銭の授受・その他もろもろが存在するが、これはそれなりに「高くつく」というのが相場なのである。まあ、これはその人間の容姿収入などに依存する変動相場制であるということも有名ではあるが、にしてもいろいろな意味で「高くつく」可能性が高いことは論を俟たない。場合によっては誰かを傷つけることにもなりかねない。
まあ、独力で解消するという手段もあるが、これはこれでなかなか面倒な作業であるというのはお分かりのことと思う。まず単純に体力が必要であるし、何より一抹のむなしさがそこには残る。
では睡眠欲は? と言うと、そもそも寝たいだけ寝られりゃあ、ストレスも多少は減るわ、ということになる。そうですね? 寝らんないというのがそもそもストレッサ―であるケースは非常に多く、とすれば「眠れないストレスを睡眠によって解消する」というんなこたぁ分かっているけどそれが出来ねぇからストレスが溜まっとるんじゃこちとら、というウロボロスの環に我々は飲み込まれ、そこから抜け出ることは出来ない。
最後に残ったのは食欲である。まるでパンドラの箱を開けたあと、最後に残った希望のように。
食欲を満たすことは、誰にも迷惑はかけない素敵な行為である。そうですよね? コストもさほど高くはない(※3)。
「腹が減ってなくても飯を食う派」が平和の体現者であるというのは、まさにこの点なのである。
性欲は時に人を傷つける。寝ようにも眠る時間は確保しにくい。だから残った欲求、すなわち食欲で誰を傷つけることなく平和裏に解決する。なんと人間的なことか!
いかがだろうか(※4)。
腹が減ってなくても飯を食う派が、いかに心優しく、そして人間的な存在であるかは、今論証した通りである。そして、この学派の人間が、ほかのことによってこの穏やかな心を保ち、人間性を保つことができないということも分かってもらえたのではないかと思う。何度も言うように、それはクラシック・ミュージックを好む老婆に、これが新しくて体にも良い音楽だから、と言って、ロック&ロールを押し付けるような行為に他ならないのである。
とすれば、この派閥に属する人間が太っていくことを、誰が責められようか?
責めるべきはひとではないのである。
本当に責めるべきは、そのひとに、苦しみを与える社会の仕組みであり、いつまでもいつまでも相互に傷つけあう社会を変革できない政治家であり、ひいては人類という種であるべきなのである。デブを責めてもダメだ。問題は解決しない。ただ、デブが悲しむだけなのである。
このことをまずは、分かって貰えると嬉しいと思う。
明日はより個人的な問題にフォーカスし、さらに諸君の理解を深めていきたいと思う。刮目して待て。
※1 俺が現にそうした、という訳ではなく、もののたとえとして。
※2 酢昆布は好きですよ。
※3 「健康」をコストとする場合はどうだろう。そこについてはちょっと考えないことにしようね。今はね。
※4 「と言われましても」と言われましても。
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