トラウマ

「せんぱぁ~いぃぃ……。」

 山積みにされている資料の向こうから女性の情けない声が聞こえてくる。が、クシーはそれを聞こえなかったことにして、お茶をすする。

「せんぱいいぃ……。」

 バサァ、と山積みにされていた書類が崩れる。その書類はクシーの机へと、勢いよく雪崩れ込んだ。

「ちょっとメル、何してんのよ。」

 クシーが冷たい声で注意する。すると、向かいで倒れるようにして机に伏せていた女性、メルが顔を上げた。彼女はクシーの一つ後輩にあたる。年はクシーと二つ違いなのだが、メルが小柄で活発な性格なのと、クシーが落ち着いている性格ということもあって、年の離れた姉妹のように見える。実際、メルはクシーに妹のように可愛がられ、別の意味でも良く可愛がられていた。いつもはパッチリとしている目は半分閉じられ、目元には隈が出来ている。そして普段は首の後ろで綺麗に束ねてある髪が、ボサボサになってしまっていた。

「酷いですよぉ、助けてくださいよぉ、後輩の危機なんですよ?」

 力ない声でメルが喋る、目は半分どころか殆ど閉じてしまっている。相当疲れている、というか眠たそうだった。

「自分の仕事でしょう、自分でかたしなさいよ。」

 冷たくあしらうクシー。だが、そう言うクシーも相当疲れているようだった。

「でも、フー先輩のグループが調査へいくのに、所長やティム先輩まで同行する必要があるんですあ~?そのお陰であたしと先輩が、その分の仕事までやらくちゃいけない羽目になってるんですよぉ。」

 作業を中断して、既にメルは作業していなかったが、恨めしそうな目を天井へと向ける。今部屋の中にいるのはクシーとメルの二人、互いに机を向かい合わせて座っている。いつもならばティムや、所長と兼任なので余り顔を出さないがアルスといった面々がいるのだが、クリーチャー調査の為に出払ってしまっているのだ。その為、クシーとメルとで他の人間の分の仕事までする事となったのだ。

 ビリオヌのグループが調査をすると、アルスとティムと共に出発したのが十日前。その間、二人だけで普段と同じ量の作業をこなさなければならないのだから、疲れも仕事も溜まる一方だった訳だ。クシーは手際が良いからましだったが、仕事自体にまだ慣れていないメルはひとたまりも無かった。仕事に追われる日々が始まり、このような結果となった、ということである。

「でも、出発してからもう十日になるでしょ?今日あたり戻ってくると思うから、安心しなさい。」

 再びお茶をすする。が、すぐにため息をつく。以前ビリオヌと話したときのことが気になるのだ。とても正気の沙汰とは思えない、人の手に負えない存在であるクリーチャーを、生きたまま捕獲すると言っていた。

 おおよそ生命という規格から大きく逸脱しているクリーチャーは、死んだ跡ですら恐れられる。普通の生物なら死んでいておかしくない負傷をしていても、平気で動くことも多々あるからだ。クリーチャーの被害に困っていた小さな村などが、一致団結して狩ったはずのクリーチャーに、逆に壊滅させられたという話は珍しくないほどだ。

 そのクリーチャーを、捕獲するだけでなく操ると言っていた。人の手に負えない存在をどうやって操るというのだろうか。そもそも、殺さない限り危険な存在を生きたまま捕獲するなんて出来るのだろうか。

「あ~、それにしてもビリオヌって人の研究の手伝いなんて…。私あの人嫌い、なんか陰湿な雰囲気漂わせてるし。」

 メルが愚痴をこぼす。クシーは考えるのを止めて、メルに向かって言った。

「ほら、愚痴をこぼしてないで手を動かすの。仕事が片付かないわよ?」

 クシーも休憩を終わりにし、作業に取り掛かる。メルはしぶしぶながらも返事をし、自分の作業に取り掛かった。


 そろそろ夕暮れ時になろうという頃、異変が起きた。初めは、ドォンという音が低く響いただけだった。メルもクシーも、それに関しては特に気にせずに、自分の作業を続けていた。だがその瞬間から時が、違う調子で流れ始めた。

 暫くしないうちに、研究所内がざわつき始める。どうやら何かトラブルがあったらしい。研究や実験を行っている施設では、トラブルというのは必ず起こるもので、特に緊急の、所員に対して生命の危機が差し迫るようなトラブルが起こらない限り、それは日常茶飯事に起こるもので、一々気にしてもいられないものだった。だが、今回は何か様子が変だった。外のざわめきが、移動しないのだ。普通トラブルが起きたとき、大体は複数の所員が研究所内を駆け回ってそれに対処している。それが殆ど一箇所で騒いでるだけだった、それも少しずつ場所を移動して……。

「なんか外が騒がしいわね?」

「そうですか?こんなのいつもの事じゃないですかぁ。」

 いつもと違う気配に違和感を感じたクシーの言葉に、メルは特に気にした様子も無く返す。ここで働くようになってまだ日の浅いメルにとって、そこまでの違和感を察知するのは無理な話だ。そう考えたクシーは、外の様子を確かめに行くことにした。

「ちょっと外の様子を見てくるわね。メル、ちゃんと仕事してなさいよ?」

 注意を促して外に出る、出るときにメルの自分だけさぼりだぁ、という情けない声が聞こえてきたが、そんなことを気にしている状況ではない。研究所内を不穏な空気が漂っている。それが何なのか確かめくてはいけない。

 廊下に出た途端、風に乗って鼻を突く、異様な臭いが漂ってきた。廊下に人の姿は無い、不安になってくる心を必死に抑え、騒ぎの起きているであろう方向へと向かった。


 騒ぎの中心へ向かっている途中、廊下に倒れている人間を見つけた。背中を負傷しているらしく、負傷部分を血が染めている。まだ意識はあるらしく、小さく呻いている。

「ティム!?」

 それが同僚だと気づき、駆け寄る。ティムは呻いているというよりも、呼吸のたびに雑音が混ざって声が出ている状態だった。左肩の下辺りが大きく抉られており、白い骨とピンクの肉がグロテスクなコントラストを彩っている。大きな血溜りができていたが、その傷口からではなく、体の下から血が出ているところから見ると、傷が胸を貫通しているようだった。遠目にも酷い状態だと見て分かるそれは、近くで見ると既に手遅れだということを物語っていた。

「ティム、どうしたのっ!」

 何かしてやりたくても、何も出来ることも無く、クシーはただ声を掛ける。意識すらもう無いように見えたが、虫の息のティムはクシーの存在に気づいたようだった。声のした方へゆっくりと顔を上げると、口を広げ何かを伝えようとする。その内容を聞き逃すまいと、ティムの声を聞こうと顔を近づける。

「……あ。」

 しかし、聞こえた声はそれだけだった。あるいはそれも、呼吸に混じったただの雑音だったのかもしれない。続いてティムの口から出てきたのは血の塊だった。近づき過ぎたクシーの顔に血がかかる。後はもう、ヒューヒューという音が聞こえるだけだった。

 その動作で力尽きたのか、ティムは二度と動くことは無かった。クシーは状況を理解できず、呼吸をすることすら忘れて、既に呼吸を止めたティムを見つめる。だが、ティムは喋ることは無い。体に触れても、体温が徐々に下がっているのを実感するだけだった。


 クシーが我に返ったのは、女性の悲鳴が聞こえた時であった。その声は、よく知っている後輩の声だった。

「メル?」

 声は先程までいた部屋のある方、クシーは背筋に嫌なものを感じ、考えるよりも早く来た道を戻っていた。


 勢い良く扉を開ける。メルの名前を呼ぼうとしたが息が上がって、声を出すことすら叶わなかった。部屋の中は静まり返っていた。もっとも、乱れた自分の呼吸と激しい鼓動の音が頭に響いているクシーには関係の無いことだったが、それでも静かだった。この部屋の中に、もう一人いるはずだということを考えたら。

 息を整えながら、部屋の中を見渡す。さっきはいたはずのメルの姿が見当たらない。メルの仕事をしていた机を見ると、資料の類が散乱しているだけだった。注意して見ると、机の周辺の所々に赤い斑点が付いている、血だ。この部屋にメルの姿は無い、あるのは血痕だけ。最悪の事態が起きているに違いないという自覚に、さあっと血の気が失せていくのが感じられる。

 突如、部屋の隅でものすごい音がした。そこには巨大な影がそびえていた。大柄な人間よりひとまわり、いや、ふたまわりは大きい。ヒトガタをした、異形な怪物がそこにいた。

「ひっ。」

 その怪物は、口から血を滴らせていた。何を口にしたのだろう、おそらくは意味の無い疑問がクシーの頭をよぎる。答えは分かっているのだから、恐らくは人間の……。

 ふと、怪物の後ろに小さな影があるのに気が付いた。部屋の隅なので、クシーの視界の陰になっていたのだろう。それが何か判った時、クシーは後悔した。何で気づいてしまったのだろうと、気づかなければ良かったと。それはメルだった、虚ろな目は宙を見つめ、力なく倒れている。動く気配は無い。

 急に、目の前が暗くなった。余りのことに心が追いつかずに、幻覚でも見せてくれるのだろうかと思ったが、現実はそんなに甘くは無かった。

 目の前が暗くなったのは、怪物が目の前まで迫ってきたからだった。クシーが顔を上げると、怪物がクシーに向かって血の滴った口を広げたところだった。


―――私は、私は!!


 クシーは心の中で叫び続けながら、意識を闇に落とした―――。




 過去の、思い出したくもない情景が蘇った。あの時、研究所はクリーチャーの暴走によって破壊され、全員が殺されてしまった。クリーチャーを追ってきたベットが助けてくれなかったら、自分も殺されていただろう。

「あなた。あの時に死んだんじゃ?」

 クリーチャーを傍らに置くビリオヌは一瞬だけきょとんして、笑い出す。

「何故僕が死ななければならないんだい、僕はここにこうして生きているんだよ。それよりも、君こそ良く生きていたね。昨日聞いた時は耳を疑ったものだが、こうして会えるとは嬉しいよ。」

 クシーはビリオヌの言葉に微妙な違和感を覚える。聞いた?誰に?

「だって、研究所内で起きたクリーチャーの暴走で職員全員が犠牲になったんじゃあ。」

 ビリオヌはこれまた可笑しいというように笑い声をあげる。

「全員って、それだったら君はどうして生き延びたんだい。それと訂正するが、あれは暴走したんじゃない。クリーチャー達は、ただ僕が命令したとおりに動いただけだよ。」

 クシーには、時が一瞬止まったかのように感じた。ビリオヌの言葉がゆっくりと頭にしみこんでくる。彼は何て言った?腹にずくん、と鈍い衝撃が走る。黒いものが溜まっているような感覚だ。


 クシーの目にはビリオヌの姿が歪んで見えた。

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