狂気は時を超えて動きだす
クシーは机の上の資料をまとめると、伸びをして一息ついた。
「お疲れ、クシー。」
とん、とカップに入れたお茶を机の上において、一人の男が声を掛けてきた。
「悪いわね、ティム。ありがとう。」
クシーは礼を言ってカップに口をつける。ティムと呼ばれた男は成人男性としては標準的な身長だが、体格としては標準より細いだろうか。とても落ち着いた雰囲気を持っているが、落ち着いているというよりはむしろのんびりとしているといった方が、この男には合っているのかもしれない。たれ気味の目にメガネが印象に残りやすい。
ティムはクシーのまとめた資料を机の上からひょいと取ると、パラパラと眺める。
「はあ…。頑張るな、君も。」
その内容を見るなり、クシーの机の上に放って戻す。
「だって、まだまだ分からないことだらけじゃない。いつまでも怯えてばかりなんて、私、嫌だもの。」
適当に放られた資料をまた元の位置に直して、クシーは言う。ティムはそれが解らないといった風な素振りを見せる。
「なんでだい?彼らのような存在がそこにいて、彼らは僕たちよりヒエラルキーの上にいる。それだけ分かれば十分なことじゃないか。後は、おまけ見たいものさ。」
淡く微笑みながら彼は言う。こういう時の彼は、思わず見惚れてしまうほど魅力的だ。ただ、何故こういう物言いをするときに微笑むのかは意味が分からないのだが。
「おいおい、そんなことを言う奴が何でこんなところに居るんだよ。ここは奴らの、そのおまけみたいなのものを研究する場所だぞ?」
突然、ティムの後ろから声が飛んで来る。クシーとティムの二人が声のしたほうを見ると、休憩用の椅子が置いてある場所に一人の大柄な男が腰を掛けていた。つい先ほどまでそこに人影は無かった筈なのだが、いつの間にか、いつも気付くとこの男は居るのだ。
「給料いいじゃん、ここ。」
ティムはたった一言で返しながら、おどけてみせる。クシーはティムの答えに苦笑しながら、男に挨拶をする。
「こんにちは、フー先輩。また来たんですか?」
「というか、違うグループなのになんでいつもここに居るんですか?」
クシーの言葉に、間髪いれずにティムが被せる。クシーは呆れ顔で余計なことを、と愚痴る。
「やることやってるからな、それ以外はここに居るだけだ。別に気にしなくていいぞ。」
と、呑気にフーと呼ばれた男、フーリーは答えた。よく見ると彼は勝手にお茶を淹れて、それを啜っていた。
「ティムよ、アルス所長に給料は要らないと今度言っておいてやろう。」
フーリーは顔を上げると、ティムに向けてにやりと笑う。それを聞いてティムは勢いよく立ち上がる。
「ちょっと、そりゃ横暴でしょう?」
ティムが抗議をあげるが、フーリーは聞く耳を持たないというように耳をふさぐ。
「聞こえないぞ~。」
「聞こえてるくせに、この筋肉研究者が……。」
ボソッとティムが呟くと、フーリーはティムのそばへとやって来てティムの頭を鷲掴みにする。
「なんてことを言うんだ。そんなことを言うのはこの口か、ん?」
頭を掴んだままティムをぶら下げ、右へ左へと振り回す。心なしか、指がティムのこめかみにめり込んでいるようにも見えた。そんな状態で振り回されながらも、ティムは懸命に喚く。
「くそ、しっかり聞こえてるじゃないかよ。それにフー先輩が掴んでるのは口じゃなくて頭だよっ。」
二人の見慣れた光景にクシーは深いため息をつくと、うんざりとした口調でフーリー訊ねた。
「で、何の用事なんですか。」
クシーの質問に対し、クシーのほうへ向き直るとフーリーは突然ティムの頭を掴んでいた手を離す。当然ティムはそのまま落ちて、受身を取ることもできずに無様に落下する。
「そうだ、言いたいことがあったんだ。」
いきなり真面目な調子になるフーリー。それに合わせて落下して身悶えていたティムも落ち着いた様子で席に着く。最初から分かっていたのか、クシーは始めから黙っていた。フーリーは一度二人の顔を見てから、話し始めた。
「ビリオヌのことだ。」
クシーとティムは無言で頷く。最初から、話題が分かっているかのようだった。
「もう、どんどんエスカレートしてるように感じるよ。今度は生きたクリーチャーを捕まえると言っている。」
フーリーは無表情に近い顔つきで話す。ビリオヌという男はフーリーの所属しているグループの上司だ。同じ研究者としては優秀な人間なのだが、研究欲が強いあまりほかの人間がついていけないところがある。自意識過剰で、他人を見下す所為で他の研究員から良く思われていなかった。
「クリーチャーを捕まえるって、正気なの……?」
クシーは聞き返していた。クリーチャーは異形な存在、手を出してはならない禁忌の存在。その生命として余りにも強力な存在は、ヒエラルキーで人間のさらに上に君臨している。そして人間が手を出せないが故に、その習性や生態は明らかになっていない。それを解明しようとしているのが、クシーを始めとした職員たちが所属する研究所であった。
現時点でのこの世の支配者、それをビリオヌは生け捕りにして研究しようとしているのだ。言うまでも無くそれは危険なことだ。まず捕まえることは不可能だろう、何故存在しているのかを疑ってしまうようなほど、生命として無茶苦茶な機能を持った生き物なのだ。一種の動物の範囲内で収まっている人間に、どうこう出来るような存在ではない、それが一般的な考え方であった。
たとえ捕まえたとしても、その後に研究するほどの余裕も無いだろう。研究する前にすべてを、クリーチャーに破壊されてしまうのが落ちなのだから。そう、そこにいる人間ごと。
「もう暴走してるな。早く止めないと大変なことになるぞ。」
ティムもあごに手をやりながら考え込む。ただ止めるよう訴えても、聞く耳を持とうとしないであろうビリオヌの行動を、止める手立てが無いか考えているのであろう。
三人は暫くの間黙って考え込んでいたが、やがて、クシーは意を決して立ち上がる。
「私が止めるように言ってくるわ。」
「おいっ?」
ティムとフーリーが止めるまもなく、クシーはその場から立ち去ってしまった。
「一体どういうこと?」
クシーは近くにあった机を勢いよく叩き、ビリオヌの注意を引く。それまで何かの研究をしているのか、よく分からない作業をしていたビリオヌが振り返る。そこに誰がいたかなんて、全く気づいてないようだった。
「おや、エリィワンドじゃないか。珍しいな、君がこんなところまで来るなんて。」
それだけ言うと、作業を再開する。他のことには一切興味が無いかのようだ。
「貴方の研究、聞いたわよ。常軌を逸しいるわよ、クリーチャーを生け捕りなんて…貴方、一体何をしたいのよ。」
きつい調子でクシーが問いかける。少ししてから、ビリオヌは顔だけを持ち上げる。
「おお、エリィワンド君ともあろう者が僕の研究に興味を持ってくれるのかい?嬉しいねぇ。」
ビリオヌの顔に笑みが浮かぶが、クシーには気味の悪いものでしかなかった。ビリオヌは、決して周りを見ようとしない。その癖に自分は、周りの人間を手当たり次第に巻き込むのだ。そのおかげで今まで他の研究員が、どれだけ迷惑をこうむったことか数知れない。そんな男の研究に興味を持ったところで、何の得があるのだろうか。
クシーの明らかに嫌悪を剥き出しにしている態度も無視して、席から立ち上がる。ビリオヌは熱のこもった目をして語り始める。
「クリーチャーという未知なる存在を、すべてを解明するんだ。ヒエラルキーの下になってしまった人間を、再び上に持っていくためにはその全てを知らなくてはならないんだよ。クリーチャーの行動範囲、栄養源、習慣、体の仕組み…解るかい?クリーチャーの全てを解明して、人間は再び支配しなくてはならないんだよ、ヒエラルキーの一番上に君臨しなければならないんだ。」
熱に侵されているような表情で、クシーの方を見る。
「エリィワンド、君もそのことにやっと気づいてくれたか……。」
その言葉を聞いてクシーの背筋は凍りついた。この男は正常ではない、本当に狂ってる。
「君が加わってくれるのなら怖いものは何も無い。さあ。」
肩に手を置こうとした瞬間、クシーはビリオヌの頬を張った。ビリオヌは何がおきたのか理解できていない様子だ。クシーの手は震えている。息を切らし、肩で呼吸をしていた。
―――まずい、この男は危険だ。
「目を覚ましなさい。」
クシーの声が部屋の中に響いた。部屋に他の人間はいない、ビリオヌに対しての言葉だということは明白だった。だが、ビリオヌは一回辺りを見て、自分に対して言葉ということを確認して向き直る。
「目を覚ましてるよ、エリィワンド君。」
叩かれた頬に手をやり、自分が何をされたのか確認をする。
「君はやはり、僕の事を見てくれないのか。」
彼は一瞬だけ俯き、再び顔を上げる。
「なら、見てくれるように頑張るよ。僕の研究を見ていてくれ、クリーチャーすら操れるようにするさ。」
自信に満ちた表情で言い切る。その言葉に、迷いも戸惑いも感じられなかった。本当に言い切っているのだ、クリーチャーを操ると。
「貴方、何を言ってるか解ってるの?」
クシーは相手を睨みつけたままだ。クシーの厳しい視線を浴びつつも、ビリオヌは言い放つ。
「研究は完成するさ、何が起きようとね。」
クシーはそこで言い争うのを止めた。この男に対して何を言おうと所詮は無駄なことなのだ、既に狂気に取り付かれているのだから。
「何があろうと、そんな研究は進めさせたりしないわ。」
最後に一言だけ言う。返事を待つ理由も無い、クシーは部屋を出ようとする。
「どんなことをしても研究は完成させるよ。なに、一人でも大丈夫さ。」
扉が閉まる直前、ビリオヌの声が聞こえた―――。
ビリオヌは後ろにいるクリーチャーをそっと撫でる。
「どうだい?僕の研究の成果は。」
クシーは固まっていた。クリーチャーを目の前にして、完全に体が言うことを聞いてくれない。
「これで、馬鹿にせずに僕のことを見てくれるね。」
ビリオヌが笑みを浮かべる。彼のその笑みは、クシーにとっては悪寒が走るものでしかなかった。
倒れた草の続く道を、ベットは一人早足で進んでいた。
「一体何処までいってるんだクシーの奴は、見回りの範囲をとうに超えてるぞ……。」
灯りも持たず、一人黙々と歩く。この背の高い草の中を照らしても、中に潜んでるかもしれない獣をいたずらに刺激するだけだ。おまけにこちらからは、掻き分けない限り草の中を見通すことは出来ない。それならば夜目を利かせて、あたりの気配を探りながら進んだ方がよほど安全だ。わざわざ余計な危険を誘い込む必要は無い、今はクシーを探し出すのが先決なのだから。
ただ一本作られた道はまだ続く。ベットはそれを確かめると、知らずに緩んでいた歩みを速めた。
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