己の心を知らずに
既に陽は高く上がり、もうその頂点を過ぎている。ランダ達は未だ広がる草原の中を歩いていた。そこは、草原といってもその背は高い。大人なら腰より上のあたりまで来る草は、ランダとシーズにとっては頭がようやく出るくらいのもので、歩くのに苦難を強いられていた。
夜に謎のクリーチャーが現れたのが前日。しかし、ロイが使おうとした灰塵の杖は発動することは無かった。感情の他に何か必要な要因があるのか、それとも条件が違ったのかは分からないが、今のところはシーズに持たせていた方が良いということで、そのままシーズに杖を持たせている。使い方が分からない以上、使う条件が出来るだけ同じ方が発動しやすいだろうということだ。灰塵の杖を使うの為には感情の石の他と強い感情の他に、何が必要だというのか?
しかし、残る疑問はそれだけではなかった。昨夜現れたクリーチャー、それは明らかに言葉を喋っていた。そして襲い掛からずに、そのまま立ち去った理由も解からないままであった。
「あれは、明らかに人間並みの知能を持っていたわ。」
クシーは、ロイとベットに対して言った。本能的な欲求を抑制するには、それなりの知性と理性が必要とされる。言葉を使用するのにも、それなりの知識が必要だ。それが、しかも人間のわかる言葉を使ったのだ。かなりの知能を持っていたとしても間違いは無いであろう。
「しかし、クリーチャーが喋るなんて……。」
ロイが考えながら呟く。
「いや、人間以外が喋ったというのなら以前もあったんだがな。」
ベットがロイの言葉に対して答える。その言葉に、ロイもクシーもキーエリィウスの街が襲われた夜のことを思い出した。
「突然聞こえてきた、あのよくわからなかった声のこと?」
確かめるように、シーズベットに聞いてみる。それにベットは頷き、さらに話を始めた。
「あの時のは声ともつかない声だったけどな、今回のは確かに喋っていた。しかも、襲い掛かってくることも無く退いていったしな。はっきり言って、解からないことだらけだ。それにしても、人間の言葉を喋るってのは……。」
そこで、ベットが考え込む。それきりで、会話が途切れてしまう。おそらくはクシーもロイもそれぞれに考え込んでいるのであろう。再び背の高い草を掻き分けながら、ただ黙々と歩き続けるだけの時間が過ぎていった。
「少し休憩しましょう?」
クシーがそう言ったのは、うっすらと空が赤く染まり、そろそろ陽が暮れそうな時のことだった。陽が暮れる前に出来るだけ移動して、この背の高い草原を抜けたいところなのだが、実際背の高い草のせいで思うように進むことは出来ていなかった。そればかりか、掻き分けながら進んでいるので思ったよりも体力の消耗が激しく、それぞれの顔には多少の差はあれ、疲れの色が出ていた。
「出来れば、この草原から抜け出したいところだが。そうだな、これ以上無理に進んでも無駄に体力を消耗するだけだろう。」
ロイは歩みを止めると、周囲の草を刈り始めた。五人が座ってくつろげるほどの適当な空間が出来たところで刈るのをやめ、腰を降ろす。ランダとシーズもそれに習う。ベットは、自分が座れる場所が出来た時点ですでに座っていた。
「どうやら、この中で夜を過ごす必要があるみたいだな。」
ロイは日の位置を確かめて言った。休憩してから再び進もうとしても、それは夜の闇の中を進まなければならない。ただでさえ視界が悪いのに、もし獣等に遭遇してしまったら……。夜の闇に紛れた獣を相手にするようなことは、出来るだけ避けたい。それに、この一日を費やしてもこの草原を出る気配が無かったのだ。恐らくはあとニ、三日この草原の中を歩くことになるだろう。それならば、下手なことをせずにここで野営を張って疲れを出来る限りとった方が良いだろう。ただ進むだけでさえ、この草原は疲れるのだから。
「じゃあ、見回りしてくるわ。」
ただ一人、腰を降ろしていなかったクシーがそう言い、辺りの警戒へ向かおうとする。
「ああ、頼む。」
ロイは軽く返事をする。野営を張る時はまず周囲の見回りをして地形の把握と、近くに何かが縄張りにしている形跡が無いかを調べておく必要がある。それを今回は、クシーが見回るということらしい。
「早めに戻って来いよ、お前も疲れてるんだからな。」
ロイが軽く注意を促す。クシーは分かったわと、同じく軽く頷いて返事をする。そして、ベットがクシーに呼び掛ける。それにクシーは振り返った。
「無理はするなよ。」
軽い一言。ただそれだけだったが、ベットの目は真剣なものだった。クシーは一瞬の間固まっていた。
「えぇ、分かってるわよ。」
その一言を返すと、クシーは見回りへと向かった。
草を右へ左へ避けながら、クシーは辺りの様子を調べていた。空は次第に薄暗くなってきている。見回りも早めに切り上げて戻った方が良さそうだ。
「特に何も無いみたいね。」
一人で呟くと、はぁっと溜まっていた息を吐き出した。
「無理なんて、してないわよ。」
先程のベットの台詞を思い出して、呻く。まるで自分に言い聞かせるような呟きであった。そして、何かを追い払うように頭を振ってまた歩き出した。
しかし、頭の中を嫌なことが纏わりついて離れない。いつも記憶の隅へ追いやっている、忘れてしまいたい過去が。ふとした弾みで頭の中を占領してしまう。
それは、忌わしい過去。それは、消してしまいたい記憶。それは、今を決定しているトラウマ。
たった数年前のことだが、遥か昔のことのように感じる。たった数年前のことが、今の自分を大きく変えることになってしまった。そして、今の自分は…
苦悩の無限回廊。例えるとしたら、今のクシーはまさにそのような状態にあった。
―――私は無理をしてない。
いや、している……。
―――私は一人でも戦える。
怖くて一人じゃ戦えない……。
―――あの過去を忘れてしまいたい。
でも、忘れることが出来ない……。
―――あの過去を無かったことにしたい。
そしたら今は存在しない……。
―――そんなに過去が嫌?
そうでなかったら私は今……。
―――そんなに今が大事?
でなかったら今の私は……。
自分の中の葛藤、自問自答、頭の中を様々な思いが駆け巡っている。一つの過去が自分の全てを変えた。過去の出来事を全て無かったことにしたい。しかし、今の自分を捨ててしまいたくない。今尚、こうやって生きている自分を嫌悪してしまう。しかし、あの時助けられて良かった。
そんな矛盾だらけの思考がクシーを支配する。そして、考えが行き着く先はいつも同じ所。『あの時、あんな事さえ起きなければ。』『あの時、あの事が起きたからこそ。』この一つの矛盾へと辿り着く。過去を否定すれば今は無い。今を肯定するには過去を認めなければならない。
「私は、どちらを選べばいいの?」
クシーの独り言は、誰にも聞かれることは無い。クシーの苦悩も、誰にも理解されない。ただ、一人で悶々と悩みつづけるだけ。そう、ただ一人で。
「あ。」
突然、クシーは我に返った。陽はもう殆ど沈んでいる。色々と考えているうちに、時間が経っていたようだ。考えながらただ黙々と歩きつづけていたので、見回る必要の無い、かなり離れた所まで来ているようだった。
戻る道が分からないと言うことは無い。歩いてきた道はしっかりと草がより分けられ、帰るべき道を示している。この道を戻ればいいだけなのだ。
「早く戻ろう。」
普段なら見回りに、こんなに時間を使わない。考え事をしていたとはいえ、こんなに時間が経ってしまっていたとは。さすがに戻らないと、ベットたちに要らぬ心配を掛けてしまう。踵を返そうとしたその時、クシーは視界に明かりが灯っている場所があるのに気付いた。
「こんな所に……人?」
不審に思い、その場所へと慎重に近づいていく。もしこれが昼間だったら、気付くことは無かったであろう。明かりがあるということは、そこに人がいる可能性が高いということだ。だが同じ人だからといって、それが味方だとは限らない。人間同士でも忌み嫌い、対立しあうものは吐いて捨てるほどいる。
明かりのついている場所へ近づいてみると、そこにあるのは小屋などの建物ではなかった。
「地下への入り口。」
人が一人やっと通れるような穴を開けて、地下への道が存在していた。そしてその入り口には、弱々しく明かりが灯っていた。どうやら、見えていたのはこの明かりだったらしい。
クシーは後ろを振り返る。あと少しで陽は完全に暮れるだろう。
「大丈夫、ある程度調べたらすぐに引き返せばいいんだから。」
自分に言い聞かせるよう呟いてから、クシーは下へと続く道を進みだす。
―――調べてもし安全だったのならば、一晩ここを使えばいい。
やがて、陽は完全に沈んだ。
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