龍と狐の小話

高久

龍と狐の小話

 雨が、ひどくなった。

 建て付けの悪くなった雨戸をたたく水音につられて少しだけ外をのぞいてみる。

 曇った空はいつもよりうんと機嫌が悪いと見え、垂れ込めた灰色の雲がのったりと渦を巻いていた。中には時折青白い光がひらめいて、森は人の進入を拒むように紗幕の内側にたたずんでいる。その中に小さな人影を見つけて、わたしはそっと息をついた。

 腐った地面を踏み、黒く崩れ落ちた木々の間を抜けて、わたしに会いに来る物好きは彼女一人くらいだ。明るい金の髪と、同じ色の目。彼女の住む世界はさぞかし晴れ渡っていることだろう。代々龍の守護を受ける家柄の私と違って、彼女は狐を祖とする一族の裔だ。

 いくばくかして、とうとう玄関をたたく音がする。重たい腰を上げて、そちらへ向かう。こんな天気のなか長時間待たせてはおけない。

「こんにちはっ」

「毎日、飽きずに来るよねえ」

「そりゃーそうよ、あたしが来なきゃご飯食べられないでしょ」

 彼女はこともなげに持ってきたお弁当を見せてからからと笑う。ずっと変わらない笑顔だ。実際、わたしが家からでることももうほとんどないから、彼女の言うことは間違ってはいないのだけど。

 あがって、というわたしの言葉を待たず、おじゃましまーす、と元気よく上がり込んでくる彼女を迎え、水浸しになった玄関の引き戸に手をかける。この家も、もう表から見ると黒ずんでひどい有様だ。

 ばん、と大きな音をたててようやく戸が閉まる。座敷へ行けば、すでに彼女が持ってきた弁当を広げているところだった。

「そういえばねー、とうとう新しい川ができたよ、大丈夫? ここに住み続けてて」

「平気平気。それに、ね、ここを出たらその、いやがるでしょ、村の人」

 わたしの周囲に降る雨は、ここ数年ずっと止まない。

 原因はわたしにあるのだろうけど、止めかたがわからない以上どうしようもないし、それ以前に村の人からは嫌われているし――そうだ、彼女にこそ一番嫌われていてしかるべき。

 だと、思う、のだけど。

「それね! いいかげんやめたらいいのに。事故だよ、あんなの女の子一人に押しつけるってのが間違ってるんだ」

 こうしていまもってかばってくれる彼女に、これ以上の負担をかけたくない、というのが正直なところで。


***


 お箸でぴしりと指さした先で、あの子は「そうかな」と気弱に笑っただけだった。へたすると雨にかき消されてしまうんじゃないか、そんなか細い声だ。いつからそんな声でしゃべるようになったのかは、正直覚えていない。

 あたしはぐずぐずになった草履を脱いで乾いた草の上を歩く足を止め、後ろを振り返ってみた。毎日毎日、こうして注意深く、彼女の元へ通う。足を滑らせないよう、お弁当をぬらしたりしないよう。

 空のこっちがわはからっと晴れているのに、あの一帯だけは止まないあの雨のせいでそれはひどい状態だ。黴と腐った土、木のいやなにおい。どろどろの地面にまかり間違って素足が触れようものなら、その場で自分の家にとって返したくなる。

「お帰り、毎日律儀だね」

 鳥居をくぐると、神主のおじさんがくたびれた顔で迎えてくれる。

「はあい、ただいまー、です」

「どうだった、彼女。まだあの家に住んでいるのかい」

「ええ」

 神主のおじさんはあたしの返事に黙り込んで、それからようやく申し訳ないような落ち込んでいるような妙な顔で、まっすぐにこちらを見下ろす。

「そのう、村の人たちが最初いったように、彼女をいい加減あの家から追い出すべきだと、思うんだ。ああいや、彼女が嫌いとか怖いとかじゃあないよ、ただね、あそこにずうっと住んでいると危ない……」

「あたしも、最近はずっとそれ、言ってるんですよ。でもあの子まだ」

「君に引け目があるのかね」

「たぶん」

 短い切り返し。

 神主のおじさんは、小さくため息をついて、そうか、とつぶやいたきり、黙り込んだ。

 彼以外の村の人は、彼女をとかく嫌っている。

 村を沈めかねない水害が起こったのは、もう数年も前のことだ。

 発端はなんでもないことだ。彼女は龍神さまの加護を文字通り一身に受けた子だった。失恋して大泣きした彼女の感情に影響されて、鉄砲水と大雨が起こっただけ。それが三日三晩続いてその年の収穫とあたしの好きな人を流しただけ。

 あたしが大泣きしたところでせいぜい干ばつが起こる程度だが、村を救うにはそれで十分だった。なんていっても、水が引かなきゃ家を建て直すこともできないんだから。

「みんな、あたしから親友まで奪うようなことはしないでしょう?」

 よってたかって彼女を罰しようとした村の人たちをとにかく必死に止めた。後ろに彼女をかばって皆を説き伏せている間も、激しく雨が降っていた。あたしも泣きたかった。


 だから、注意深く彼女の元へ通う。無断で彼女が家を出て行ったりしないように、注意深く言葉を選び、そうそれはあの子を心配する言葉であるほうがいい。

 雨が止まないのならなおのこと都合がいい。せいぜい一人っきりでいて、さんざん寂しい思いをしながら腐った地面に飲まれて死ねばいいのだ。


***


 森が沈んだ。

 雨でぐずぐずに腐ったそれを森と呼べるものかちょっと判断に困るところだが、どうやらとうとう、あの龍の娘諸共に、雨に堪えきれず地面ごと陥没し、大きな穴に今は異臭を放つどす黒い巨大な沼が残るばかり。

 長らく彼女の元へ通い続けていた狐の娘は明るい色の耳をはたはたとあっちへむけこっちへむけ、雨の止んだ森の跡を眺めていたかと思うと、わっと両手を広げてその中へ飛び降りた。

 村の者が止める暇もなかった。

 ずっと彼女のことを気にかけていたものな、と誰かが言うのに、集まった村人たちの頭がさざ波のように揺れた。

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