鬼吉権現は、海産物を輸出している会社の係長をしていた。ほぼ同時代に入社したものは、三人いるが全員、専務か役付きの部長になっていた。入社して二十年が過ぎようとしていた。

 鬼吉権現は、城下町の呉服屋の長男として生まれた。創業は四百年前に遡り、面々と世襲によって受け継がれてきた。顧客は創業以来の由緒正しき名家まであるが、江戸時代から付き合いのある家も少なくない。鬼吉権現は当然その後を継ぐものとして生まれてきた。 長男誕生の報告を受け、両親や親族の喜びは大きく、早速跡継ぎになるべく躾と教育は手抜かりなく執り行われることになった。しかも鬼吉権現は幼少より気立てよく、頭脳明晰であり、教えることの尽く海綿に浸みていく真水のごとく身体に受け入れ、すぐに応用を利かせ、回りのものを驚かせ、呆れさせ、これぞ正しく神童と言うものに違いないと誰彼にも言わしめていた。

名門と言われる小学校の受験に難無く合格すると、最初より勉強はもとより運動さらに芸術分野に至るまで常に一位を維持し、他を寄せ付けずそれが誰の目にも当たり前のこととなり、そのまま階段式に高校まで続く学校であるから、児童会、生徒会では当然会長に選ばれ、弓道という運動競技を通して、その秀でた存在の名声は他校にまでおよんでいた。

 小学校に入るころに、弟が誕生しさらも次々と妹も三人誕生した。どの子供もそこそこに優秀ではあったが、流石に長男権現の粋に達するものはいなかった。

 鬼吉権現は高校を首席で卒業すると、誰もが当たり前だと思って疑うことをしていなかった、東京の大学に難無く合格し、やがて法律を勉強することとなった。勉強する分野はなんでも良かった。家督を継ぎ、伝統を守り続け、さらに次の世代に引き継げれば、学歴は名家と本人を飾る装飾品であり、それ以上のものではなかった。

 東京では高級なマンションに一人暮らしをしていた。実家にいたときは、両親や付きの者共が至れり尽くせりの面倒を権現に執り行っていたのではあるが、流石東京に出たのであれば、そこまですることには至らなかった。さらに、そろそろ自立を促す時期にも来ているという判断もあり一人住まいを親の意思で決定したところではあるが、やはりその判断は遅くさらに自立できる程度のものでもなかった。すなわち月に一度か二度は、付きの者が現れ、一泊をし、学業に専念しているかを監視し生活の乱れがないかを確認していたからである。

 大学に入り三年目の春、芽吹き時、さらに虫が出始めるころ、鬼吉権現の様子に異変が現れてきた。それは遅すぎた思春期の疼きであり、異物の激しく混ざった思春期の到来であった。付きの者が権現のマンションを訪れたとき、床に三つの灰皿が置かれ、そのどれもが吸い殻が天こ盛りになり、吸い殻の何本かは板の床や絨毯の上に落ち、焼け焦げが七ヶ所も見つかった。付きの者はそのことに気がついてはいたが、自分とは比較すらできぬ格段に優秀な跡取り殿であり、ただただ仕え奉る学生とはいえ主人であったから、これまでの様に腫れ物に触るように接し、咎めることはもちろん出来ず、なにも言わず、そのことを両親に報告もするようなことはしていなかった。

 しかし若者の坂を下り降りるのは速く、止めとなる経験はないのであるから、急転直下あれよあれよと言う間の、次回付きの者が来たときには、目つき厳しく、眼光の時に不適笑いで光り、顔は青ざめ、部屋は乱雑に荒れ、壁には裸体の女の写真が貼られ、床には出張売春のチラシが二枚三枚と散逸し、ゴミ箱の中に女の破れた下着と覚しきものも見受けられ、付箋の貼られている競艇競馬競輪の専門誌どころか、闇の賭博場からの請求書、その請求書に記載された夥しい数字はまさか金額ではあるまいかと不安にかられ、プリントアウトされた麻薬や拳銃の手の入れ方の紙。さらに振り込め詐欺の手口や爆弾の作り方の秘密本など。しかもそのような景色を眺めている最中に扉が開き、女が入ってくる。しばらく外に出て行けと言われ、付きの者は廊下に出て、手持ちぶさたに携帯などをいじっていると、女が出てきたので、また部屋に入る。床には空になったウイスキーの瓶が転がり、そこに放心状態の権現がいた。

 付きの者は、もう咎める段階ではないと悟ると、今日はここに泊まるのはやめてどこかビジネスホテルに滞在することに決めて、健康にだけは気をつけてくださいの一言を残し立ち去ろうとする時に、今度親父とお袋が同時に家を空けるのはいつかと聞かれたので、来月、業界で行く温泉旅行の月日を教え、そそくさと退散して行った。

 権現の両親が家の財産のかなりが抜かれていることをしったのは、その温泉旅行から一月後になる。

 一八歳の東京に赴く前日、後に家督を継ぐ者として父親に呼ばれ、財産の在処とその出し方を説明された。跡継ぎが東京にいる間に、もし自分に不慮の出来事があればというもっともな配慮であり、店主にしてみれば、長男の権現は世界でもっとも信頼の置ける男であった。

 両親が温泉旅行の最中に密かに帰省し、夜中に、誰に気づかれることもなく家に入り込み、父親の部屋に忍び込むと財産の入っている金庫を瞬く間に開け、金を下ろす必要なものを持ち出した。

法律は長けていたので、あらかじめ偽装会社を設立してあり、そこに融資するようにし、何億もの金を、盗み出した通帳から素早く引き出した。

 そのことが発覚し、父親は警察に言う前に懇意の弁護士と相談し、やはり長男の権現しか、そのようなことは出来ないと言う結論になった。弁護士と供に東京に上京し、息子の部屋に入るなり、その荒みきった部屋を見て、言葉を失い現実に何が起きているかが分からないまま気が遠くなり、鼻緒の切れたゴム草履、雪駄、踵の折れ曲がった革靴、汚れきったスリッパなどが散乱する玄関に倒れ込んでしまった。部屋の奥には、その姿を寝っ転がりながら束ねたエロ本を枕代わりにして、権現がニヤニヤと薄ら笑いをして見ていた。

 意識を取り戻した父親は、その場で弁護士に「これは何がおきたのか」問うたが、弁護士は目をむいたまま、権現を見つめ続けている。権現はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべるだけで掴み所がなく、一端ホテルに引き上げ、弁護士に聞き、精神に異常をきたしていると思わざるおえないので、しかるべき施設に隔離し療養が必要であろうと言う意見で、すぐにそのような処置を取った。

 次の次の日の朝方、人通りのないころを見計らって、しかるべき施設からきた腕っ節の強い男によって権現は無理矢理高級なマンションから引きずり出され、車に乗せられそのまましかるべき施設へと向かい、鉄格子のはまった部屋に入れられ、鍵を閉められ、医師の診察を受けた。結果はもう少し様子を見ないとわからないがという前置きで医師が小さな声で言った

「修復困難なくらい壊れている」

父親は家に帰り、被害額を調べると資産の半分以上が消えていた。さらにその後、荒れ放題のマンションを引き上げる際にかかった諸費用や妻と命懸けで入り込んだ闇の世界で湯水のごとく流れ出た金、その他諸々の費用、訳の分からぬ謝金までを払いきると、またまた気を失うほどの資産が湯水のごとく流れ出ていった。


日々はあっという間にしかし慌ただしく流れていった。

 父親は何度か危ない目に遭いながらも、四百年の歴史を持つ店を、なんとか踏みとどまらさせ存続していけるようにできた。

 家督は次男の総次郎に託された。総次郎は兄の陰に隠れて、目立つところはなく、どちらかと言えば大人しく控えめではあったが、勉強はそこそこ出来て、地元の大学に通い跡継ぎとしては何ら問題はなかった。

さて、権現は医師の的確な治療で奇跡的な回復を見せたが、以前の神童にまでは遠く及ばず、変わり者として社会復帰が出来る迄になった。

 学校は二年間の休学を要したが、復帰することも出来た。しかし親の対応はことごとく変化し、共同トイレで風呂やシャワーなしの今にも崩れ落ちそうなアパートをあてがわれ、食えるだけの最小の仕送りをするのみとなり、帰省は店の体面があり一切許されず、すなわち勘当された。

 しかし卒業半年前から、就活をまめにおこない、数をこなし、海産物の輸出を取り扱う商社に入社出来ることになった。

 しかし、権現が二十年を勤め上げたところで、その会社は倒産した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る