鬼吉係長の死

里岐 史紋

①鬼吉権現の回想

 漕いでいるボートの塗装はところどころ剥げ落ち、鉄の部分は錆びて、その一部は崩れ落ちている。右舷と左舷の木部の縁は欠けたり腐ったりしている。

 その縁に取り付けてあるオールを支える金属の支柱は、ネジが右も左も取れかかっていて、両方のオールとも上手に漕ぐことが出来ない。

 もう何時間もこのオールをガタガタとする音をさせながら漕いでいるので、そんなことは気にならなくなっていた。両掌の指のつけ根には肉刺ができ始めていた。

三ヶ月前まで、俺は鬼吉係長と呼ばれていた。海産物を輸出する商社としては最大手の商社だった。二十五歳で入社し二十年間を勤め上げた。俺は立場こそ係長だったたが、社の中では誰もが認める最も有能営業マンであり、係長でありながら会社の経営をも適切にアドバイスする、言わば会社の屋台骨であった。したがって係長ではあるが、一般的な係長ではなく、特別な係長であったと言えるだろう。しかしそのことが分かっている社員は限られていた。俺が見定めたところでは、完全に理解しているのは、俺の直属の部下であった胡桃亨と言う、能力的には少し欠けるが天性の閃きは一目置くものを内に秘めている、若干二十五歳の男一人だけであった。

 しかし、残念ながらその会社は倒産した。会社が倒産するにあたり、社長がその後の処理を頼み込んできたのは、やはり俺にだった。俺にしか分からないことが沢山あったからだ。いちいち数え上げたらきりがないくらいだ。倒産後の処理はほとんど俺一人でやったと言っても過言ではない。俺は手際よく、すべてを明らかにし、所属していた社員や株主や債券を背負っていた企業にも出来るだけ有利に負債を負わせることのないように処理をした。しかし、倒産した後に乗り込んできた岩立いう管財人は、年だけは取っているが何も分からないくせに、俺にお伺いを立てようともせず、えばり腐り、俺を通さずに胡桃亨をあごで使い、挙げ句の果てに、この俺に事務所に来るなと怒鳴り、しかも働いた分の給料は出さないと、驚き呆れることを平気な顔で言った。世が世ならば、殿様に楯突く下級武士の所行であるから、その場で切って捨てても何も問題はないどころか、むしろ、俺の沽券に関わることであるから、そのようにすることが必要であったのだが、何分にも俺のことを命がけで慕っている、胡桃亨が人質として捕まっているのであるから、俺としても下手な動きはできないでいた。

しかし、有能かつ沈着冷静な俺はその場は一端引いたと見せかけて、やがて状況を見計らい、一気に天誅を下さなければならぬ時がくるであろうことは、常に正義を行ってきた俺には、耳の奥の鼓膜がビンビンと揺れ動く凄まじい天の声として聞こえてきていたのだった。

 胡桃亨は、俺とともに会社を去り、行動を共にしたいと思っていたに違いない。俺にはよく分かるのだ。特に俺の本質を知り、豊かな人間性や、人を思う暖かで奥の深い眼差し、俺と触れることで得られる能力の開花と、幸運を引き寄せられる魅惑の力を間近に見て触れていたいという純な気持ちは、感動を持って俺に伝わって来ていたのだ。

 しかしあの岩立がそれを阻止したのだ。己の利益のために。能力はないが犬のように言われたままに動き回る胡桃亨は、使い勝手がよく、いらなくなれば躊躇いなくすぐに捨てられる道具だった。山歩きで杖代わりに拾った枯れ枝の様なものだった。長さも持ち味も、重さも、枝の所々に繁殖したカビの赤と橙の色合いも、好みだったのだ。 襲ってくる蛇に一撃を与えることも、腹が減れば土を穿り食い物とするサナギや虫などを得ることも出来た。頭にくることがあれば、その枯れ枝を思い切り振り回し、太い木の幹にぶち当て真っ二つ折り、足で踏みつけて砕き、怒りの持って行きようにし、気持ちを納めることだってできる。

 いらなくなればその辺に捨てる。

 しかし、俺は胡桃亨を見捨てた。何故か。それは、この男が俺の背後で生きる価値があるかどうか見極めるためだった。この男が俺にふさわしく強運を身のうちに秘めているのであれば、自らの力で天に這い上がり、俺の背中に届くところまでやってくることが出来るであろう。もし、それが出来なければ、この男はやはり強欲な馬鹿に翻弄される枯れ枝の価値しか持ち合わせていなかったことになる。

 だからといって。俺は完全に突き放してしまったわけではなかった。俺の情けは、深い海のごとく魅惑的であり神秘に満ちているからだ。胡桃亨には気づかれないように、俺はそっと手をさしのべていた。それは、身元不明の手紙であったり、メールだったりするのだ。時にはわざわざ胡桃亨の住んでいるボロアパートまで出かけていき、勇気の沸き煮出す、俺の作品である名句を書き連ねた手書きの書物を誰が置いていったとも分からぬようにそっと郵便受けに入れって行ったこともある。

 その慈悲深い行動に、あまりに慈悲深い情けに、俺は止めどなく流れ行く涙を拭くこともせずに、流れるままに曇り空を眺むれば、そこから舞い落ちる三粒四粒の雨しずくと混ざり合い、真珠のような俺の涙はダイヤモンドの輝きを発したものであった。

その名句のいくつかは、これから始まる俺の旅を支えるものとなるのであった。しかしここに記することは出来ない。すなわち、それらは俺の記憶から心の奥底に沈んでいったからだ。

胡桃亨には彼女がいた。会社で知り合ったのだが、俺がいつも井村絵里と呼びつけて下女のように使っていた女だった。美人で周りからちやほやされていたが、アメリカの大学を出たとかで鼻持ちならないところもあったが、仕事はそれなりに出来て俺が命じた仕事はそこそこにこなしていた。すくなくとも、胡桃亨よりかは使い物になった。

 この二人の関係は、二人とも俺のそばにいたときには良好かつ円滑に執り行われていたのだが、俺のそばを離れた瞬間にガタがきて、修復不可能になってしまった。幸運は俺とともに去って行ってしまったと言っていいのだが、幸せという名の俺という男は、エンジェルという別の一面もあるということを、この浅はかな二名は理解ができていなかったのだ。

人間、心の目を閉ざしてしまうことは恐ろしいことだ。目の前の大切なものも平気の平左衛門で捨てていってしまうものだ。しかしそれも若気の至り。

 胡桃亨は最も大切な俺から、取り返しのつかないところへ行ってしまったわけではない。まだ運はおまえを見捨ててはいないと言うことだ。

会社時代の俺を慕っていたもう一人の男に花岡竜一という、入社して何年もしないのに、隣の課の課長に抜擢された男がいた。俺の場合は入社して二十年がたって係長という処遇ではあるが、これには深謀遠慮な意味があり、実際は当然この会社にとっては社長に次ぐナンバーツーなのだが、その深謀遠慮の意味であるから、そう簡単に説明することなどできるはずもなく、あえて誤解を招かないで言える証明としては、会社が倒産した後唯一会社に残ってくれと社長に頼まれことだ。

 その後社長も会社に来なくなったので、実質俺が会社のナンバーワンになったことになる。いま、この段間だからつらつら思うのだが、言ってしまっても誰もがそう思うに決まっていることであるから、あえて言うのだが、この俺が早くからこの会社のナンバーワンになっていれば、この会社は所謂、倒産をしなくてもすむことは断固たる事実として人々の記憶に残ることとなってしまった。

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