第25話 雛の日の一人づつ減るあそびかな 伊沢惠
雛の日の一人づつ減るあそびかな 伊沢惠
何週間か前に、「若い人は俳句が続かない」ということを書いた。いや実際は続けているのかもしれない。私が不勉強なだけかもしれない。しかし多くの才能ある若い人々が、一時華々しい作品を生み出した後で音もなく消え去っているのも事実であろう。
それを嘆くか、嘆かざるか。
私なりの結論を言えば、そんなものは嘆かずともよい。去る者は去ればいい。ただ一句でも俳壇に華麗なる作品を残してくれたならば、俳句作者としての彼らの功績は十二分だったと言えるだろう。
ただそれにしても、十代で俳句を知ってそれなりの作品を残せたにも関わらず、その後「もっといい句を作りたい」と思わないのはなぜだろう。
前に私はその理由を、「先達が魅力ある作品を作らないからだ」と書いたが、本心は実はそんなことは関係がないと思っている。周りがどんな作品を作ろうと、止めるものは止めていくのだ。
だからと言って、今の若い人には向上心がないとか継続力が足りないとか言うのは即断である。彼らはきっと、俳句ではない別の方向へ向上心を向け成長しているのだ。
では、私はどうして十代から現在に至るまで俳句を続けて来られただろうかと振返ってみる。
やはり重要だったのは「句友」の存在だったと思う。
私は俳句を始めて比較的早い段階から句会に出席していた。最初は見る人聞く人誰もが初対面で私は蚊帳の外といった気分だったが、何度か出席する内に別の句会に誘ってくれる人が現れたりして、次第に小さな繋がりの中に入れてもらえるようになって行った。
句会のほとんどは、一か月に一回である。だから一回休むとひと月以上その人々に会えなくなるわけで、私は句会を休めなくなってしまった。
大きな挫折を経験して俳句を止めようと思った時にも、止めずに来られたのは句友の存在のお陰だった。私を仲間に入れてくれ、永い時間を共に過ごさせてもらった句友たちとの縁が切れてしまうのが悲しかった。だから俳句に魅力を感じなくなっても、句会にだけは出席していた。そして現在に至っている。
十代の彼らには、まだその経験がなかったのだ。句友を持つ前に去ってしまう。句会を経験し、気持ちが繋がる句友を持てば、彼らはその中に自分の役割を感じ、早々に去ろうとは思わなかったのではないか。
十代の作者の多くは、俳句を作るきっかけが学校の授業だったり、俳句大会の競技としてだったりする。それは俳句を作り投稿するという、一方通行の作業だ。
しかし本来の俳句は違う。座の文学である。俳句を作り投句し、選句され結果が返ってくる。更には一座の中で選句し合い、意見を述べ合う。双方向、多方向の文学だ。
若い才能ある作者の流出をもし惜しむのであれば、彼らには早目に俳句の双方向性を経験させたらいい。きっと俳句への取り組み方が違ったものになってくるだろう。
競技としての俳句も悪くはない。しかしもっといいものが俳句にはある。
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