第24話 黴のことだけを話して立ち去りぬ 岡田靖子
黴のことだけを話して立ち去りぬ 岡田靖子
この欄を担当させて頂いてから、私は何度か若い俳句作者の登場を礼賛してきた。
何事もそうだが、旧来の古い枠を打ち壊し新しい風を送り込んでくれるのは、次の世代の新しい人々である。
いつまでも風通しの悪い部屋にいたのでは、黴が生えてしまう。新鮮な空気を入れることが必要である。
ただ、何もそれを期待させてくれるのは年代が若い人々ということには限らない。年代が多少上がった人の中からも、新しい可能性や新しい価値観を持った人々は登場し得る。
岡田靖子氏という作家は、とても眩しい存在であった。
氏が俳句を始められたのは、確か五十代に入ってからだったと記憶している。どちらかと言えば遅咲きの部類に入るだろうが、デビューしてからの氏の活躍は目覚ましかった。
俳句を始めてわずか二、三年の内に掲句を発表し、その後も
蝌蚪孵るまではなんでもなき少女
嘘も言ひます春大根の葉つぱほど
桜散つてしまへば並のをとこなり
などの怪しげな佳句を次々と連発していた。
俳壇では、どうも年齢ばかりが注目されがちである。経験を何年積んでいても二十代、三十代は「新人」と表現され、句歴がどれほど浅くても五十代、六十代になると「新人」とはあまり表現されない。
しかし本来ならば、年齢よりも句歴の方がもっと尊重されるべきではないだろうか。
句歴十五年の三十代と句歴二年の五十代。どちらが「新人」であるかと言えば、私は後者だろうと思う。
結社やそれ以外の「新人賞」と名のつく賞を競わせる時、その多くは「四十代まで」などという「年代」によって対象を制限しようとする。
しかしもっと純粋な意味での「新人」の発掘を目的とするならば、「句歴五年までの作家」などと対象を絞る方がより効果的ではないだろうか。
もちろん句歴は自己申告制になるから一般公募の大会では難しいだろうが、結社内での選考ならば不可能ではないだろう。応募資格を入会から何年までとすればよいだけだ。
新しい才能、可能性は何も歳の若い人々の中からのみ現れる訳ではない。いくらか歳を重ねた人々の中からだって、意欲や野心に富んだ人は登場するはずだ。
そういう意味では、私ももはや新人ではないつもりである。これ以上「新人」に追い抜かれないように、気を引き締めている次第である。
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