第23話 方丈の大庇より春の蝶 高野素十
方丈の大庇より春の蝶 高野素十
私は昔からひねくれていた。
天邪鬼、と言えば多少は聞こえもよいだろうか、とにかく性格が素直ではなかった。歪んでいた。
人からだめだと言われると、むしろそれをやってみたくなった。人からこうする方がいいと言われると、その方法はもう使いたくなくなってしまった。
例えば俳句で「で」という助詞を使うのはよしなさい、と言われると、むしろ「で」を使った作品を作ることに熱を燃やした。
切れ字を使った俳句を作りなさい、と言われると、なるべく切れ字の入らない作品を作ろうと苦心した。
季重なりはいけません、と言われると、わざわざ季語を複数使った句を考えて見たりした。
そうやって反発して作った作品がたまさか選に入ったりすると、ひそかに「よしっ」と握りこぶしを作ったりしたものだった。
ただ教えている方からすれば、いけないと言うことをいちいちやってくるのだから、可愛くはないだろう。前の指導者にひどく嫌われてしまったのも無理はない。
ただ、自分で言うのも何なのだが、こういった反発心は多少なりとも必要だろうと思っている。誰かがよくない、いけないと言ったからと言って、黙ってそれに追従するばかりでは可能性を狭めてしまうばかりだ。
皆が登る登山道を行くのは、安全だし早くて楽だ。しかしそこから見る景色は百人中百人一緒である。
同じ山でも、断崖のような道なき道を自ら切り開いて登って行けば、その先には他の人とはまるで違った景色が広がっているだろう。
当然怪我もするし体力も要する。皆より登頂するのに何倍もの時間を費やすこともあるだろう。しかし、敢えてそちらを選んでみるのだ。
今の俳壇はお行儀がよすぎるのだ。もっとやんちゃな人がいていい。
たとえどのような破天荒な作風で、多少規制のルールを破っていたとしても、出来たものが良いものであったならば、選者としてはそれを残さざるを得ないだろう。
季重なりでも、佳いものは佳いのだ。
例えば掲句のように、季重なりでも採らざるを得ない句を作る。結果として出来なくてもいい。
とにかくそういう挑戦心というか、開拓心はいつも持っていたいと思う。それが自分を、俳句を停滞させないためにはとても必要なことだ。
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