第22話 雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと  松本たかし




雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと  松本たかし




先週、若い俳句作者に擬人法を多用する傾向があるのではないか、ということを書かせてもらった。そしてその理由を、大人に比べ子供の方か対象と同化しやすいためと推理した。




年を経るに従って次第に擬人法の句が少なくなって行くのは、上記のような原因も考えられるだろう。しかし、実はもっと確からしい理由があるようにも思う。




それは、擬人法を使うと失敗しやすいと言われているためだ。




なぜ擬人法は失敗をしやすいかと言えば、やはりそれは作者の主観や想像によって作られるからだろう。たとえ作者自身がそのように感じたことでも、それを一般の読者が同じように感じ、納得してくれるかは別問題である。十代や初学の人の作品ならば、「初々しい」と言って受け入れられても、ある程度経験を積んだ作者のものならばそうは行かなくなってくる。




また、もう一つに擬人法の作品は幼稚っぽく、甘くなりやすい傾向があるように思う。前回の「あぶらぜみ空をいためて食べている」にせよ今回の掲句にせよ、カレーで譬えるならお子様用の「甘口」の部類に属するだろう。




殊に掲句の甘さと言ったらばない。季語の「雪だるま」と言い、「星」が「おしゃべり」することと言い、そのお喋りの仕方の「ぺちゃくちゃと」と言い、どこからどこまで子供視線である。今の作者がこのような句を作ると、選者によってはあるいは「駄目」と烙印を押すかもしれない。




しかし、である。いいのではないだろうか、このような作品があっても。




俳句は文芸だからと言って、何もみんながみんな四六時中、羽織袴で四角く座っている必要はない。たまには姿勢を崩して、体中のネジを緩まるだけ緩めてお気楽に作句してみるのもよいことであろう。




俳句作者は常に対象を外側から客観的に凝視する訓練をさせられている。確かにその方が失敗率が低くなるから、先人がそう教えるのだろう。




しかしたまには思い切って対象に飛び込んで、対象と一体になってしまうのも方法である。そうすれば、きっといつもと違った見え方、感じ方を発見できるはずだ。




たとえその結果が独りよがりだ、主観的だと言われてもいい。その時は、その作品を捨てるまでの話だ。それ以上に、最初から可能性を放棄してしまう方がはるかに勿体ないことではないか。




掲句は、読むたびに私を御伽の国に誘ってくれる。子供のころに読んだ、童話の世界に呼び戻してくれる。とても懐かしく、心が温まる。




甘くて佳い句を、恐れずに作ってみたい。




ちなみに私は、カレーは未だに甘口しか食べられない。


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