第21話 あぶらぜみ空をいためて食べている  恩田皓充

あぶらぜみ空をいためて食べている  恩田皓充




先週は高校生の俳句作品を取り上げた。それで思い出したのだが、若いといえば飛びきり若くしてデビューした俳句作者がいた。




恩田皓充氏。2000年に句集『青空の指きり』を出版した当時、何と13歳であった。




若い作者というと、大抵滅茶苦茶か奇妙奇天烈な作品を作る人が多いように思うが、恩田氏の作品はそうではなかった。




少年らしい想像力を素直に表現し、完成度が全体的に高かった。そしてつい先日まで小学生だったとは思えない語彙力、表現力で、大変勉強になる句集であった。




掲句の他にも、挙げれば切りがないが




春眠に平泳ぎする大男


春の月大黒柱ユユユユン


子つばめにえさ親鳥の目まで入れ


あわふきむしくしゃみおさえてあわぶくぶく


春の空チーズは雲になりたそう




など、集中には佳句が並んでいる。




こうして眺めて見ると、若い作者の作る俳句には、一つの共通点が見てとれる。それは「擬人法」を多用するということだ。




それはなぜだろうか。恐らく、年齢が若くなればなるほど、「自」と「他」の認識が曖昧になって行くのではないだろうか。




例えば児童が読む童話などでは、猿や犬が喋ったりおもちゃがダンスしたりする。子供にとっては、自分ができることは即ち物も含めた他者もできることなのであり、自分と他者とは常に同じ地平に立っているものと思っているのだろう。




子供が誰に対しても敬語を用いないのはその表れであろう。




一方人は年を重ねるごとに、他者との関わりが重要になって来る。常に他者と自分との関係を考慮して自分の立ち位置を判断することが求められる。その結果、自分と他者との違いをはっきりと意識するようになる。




その点子供の方がより自然に対象との距離を縮められ、対象の気持ちや対象の目線になって発想をできるのではないだろうか。




またもう一点、若い作者に特有の共通点がある。




それは「その後名前を見なくなる」ということだ。




十代の内に早々と佳句を残し、その後も永らく活躍している人の名前を、私は数えるほどしか知らない。




毎年、これほど多く若い人々による佳句が作られているにも関わらず、だ。




失礼ながら掲句の作者恩田氏さえ、今現在俳句をお作りであるかどうか私にはわからない。総合誌などでお名前を見た記憶もない。




一瞬の花火であっても、それはそれでいい。残されたそれらの佳句は、時につけ折に触れて人々によって愛唱され鑑賞されるだろう。




しかし、それらの作者の多くがその後俳句を捨てて去って行ってしまう原因は一体何なのだろうか。




あの人のようになりたい、あの人のような作品を作りたい。そう思い憧れる先達がもし彼らに見つかったならば、もっと永く若い人々が俳句の土壌を耕してくれるのではないだろうか。




面白い、若々しい、新鮮だ、などと手を叩いている場合ではない。私も魅力ある作品を作りたいと思う。

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