第18話 家々に窓ある如く父の老ゆ 東鵠鳴
家々に窓ある如く父の老ゆ 東鵠鳴
私は作句するに当たり、基本的には有季定型の立場を取っている。それには別段深い理由はない。俳句が元来それを求めているからそうするまでのこと。それが嫌なのであれば、俳句形式以外の表現方法に依ったらいいだけの話だ。
ただ、だからと言って無季俳句、自由律俳句を一から否定するものではない。たとえルールを逸脱していようと、良いものは良いとする立場だ。逆に、ルールに厳格になり過ぎるあまりに名作を黙殺してしまうようでは、却って我々にとって非常にもったいないことになってしまう。
掲句はある句会で目にした一句。私は掲句を見た瞬間、迷わず特選の座に置いた。もちろん掲句は無季俳句である。ただ、そんなことは問題にさせない力強さ、衝撃力が掲句にはあった。
これを採らずして何を採るのか、と思わせるほどの名作であった。
ただし、この句を言葉で解釈するのは非常に難しい。「父が老いる」ことが、「家々に窓があるようだ」ということを、言葉を以て説明するのはとても困難だ。しかし感覚的には非常に「分かる」のである。この比喩は「言い得て妙」である、ということだけは確かにはっきりしているのである。
つまり名句には理屈など要らない、ということだ。どこがどう良いのか、など問題ではない。とにかく良い。それでいいのだ。
ただ、無季俳句の成功例には一つだけ共通していることがあるように思われる。それは、季語はないが、季節感はある、ということだ。
無季俳句の代表例として私がすぐ思い浮かぶのは、
戦争が廊下の奥に立つてゐた
という渡辺白泉の句だが、これなどもちゃんと季感は感じられる。掲句を読んで、春や秋や冬を想像する人はあまりいないのではないだろうか。恐らくは、大多数の人が読んですぐ夏をイメージするはずである。
同様に、掲句も私にとっては紛れもなく夏のイメージである。照りつける日光のもと、ぎらぎらと照り返す家々の窓。それと対照的に老いる父。
つまるところ無季俳句の名作とは、季語が入っていない代わりにその作品自体が「季語」の働きをしている、と言えるかもしれない。だからこそ、つまらない理屈抜きに我々の胸に響くのである。
狙ってできるものではない。掲句の作者も、決して狙っていた訳ではないだろう。
しかし、来た時には敢えて拒む必要はない。
良いものは良い。それで良いのである。
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