第16話 てんと虫一兵われの死なざりし  安住敦

てんと虫一兵われの死なざりし  安住敦




前回は「笑い」ということについて書かせてもらった。その続きで、今回ももう少し俳句における「笑い」について考えて見たいと思う。




毎週日曜日の夕方に日本テレビで放送されている長寿番組「笑点」。私はこの番組を楽しみに、毎週欠かさずに観ている。




名物は、司会者から出される問い掛けに、回答者がとんちを交えて答えを作る「大喜利」というコーナーだ。上手い回答をした者には司会者から座布団が与えられ、逆に良くない答えをした者からは座布団が奪われる。




そのコーナーを観ながら、ある日ふと思った。この「大喜利」と俳句とには、とても共通している部分があるのではないか、ということを。




「大喜利」でよいとされる回答とは、どういったものであろうか。一つには観客の予想を覆さなければならない。ある質問を出された時に、誰しも最初に思いつくようなことを言っても笑いは起こらない。観客に「そう来たか」と膝を打たせるためには、一般的な連想とは一線を画した発想をしなくてはならないのだ。




話を分かりやすくするために、一つ具体例を挙げてみよう。




こういう題が出されたとする。


「芋畑に誰誰が居てね」と言って下さい。司会者が「へえ、どうしてたの」と聞きますのでさらに続けて答えて下さい。




先に記した悪い回答の例を挙げるとすると、次のような答えがある。


「芋畑にお百姓が居てね」「へえ、どうしてたの」「芋を掘ってた」




これでは何も起こらない。なぜならごく平凡な、ありきたりなことを言ってしまっているからだ。仮に俳句に置き換えて言うならば、「梅に鶯」の類であろう。そんなことは百も承知。言われなくとも分かっている。それでは人の琴線に触れることはないのだ。




また一方で人々の連想からかけ離れ過ぎた回答も、観衆の支持は受けない。


「芋畑に韓流スターがいてね」「へえ、どうしてたの」「躍ってた」




これも失敗例であるが、原因は「芋畑」と「韓流スター」との間に関連性が欠如しているためだ。二つの言葉の距離が離れすぎていて、観衆の納得を得ない。だから笑いも感動も起こらないのだ。




つまり「大喜利」における回答の作り方というのは、実は俳句における季語と言葉の選び方に実によく似ているのだ。




次週、もう少しこの話題について触れてみたい。なお時間のある方は、上記例題への解答例を考えて頂けたらと思う。

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