第13話 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  水原秋櫻子

啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  水原秋櫻子




さて今回は前週からの続きである。写生句を作ることがなぜ難しいか、そしてそれなのになぜ俳句を作るに当たって写生句が重要であると言われ続けているのか、私なりの検証を進めて行きたい。




写生句が作りづらいと思われる第三の理由は、そもそも俳句に描きたくなるような理想的な風景に出くわすことなど、そうそうあるものではない、ということだ。俳人は毎日吟行している訳ではない。多くの作家は日常的には仕事なり家事なり勉強なりに追われて忙しく生活している。その中で、空いた時間を見つけて自身を俳人モードに切り替えているだけだ。ところがいくら自分が俳人モードに切り替わったところで、身の回りにあるのは普段の見慣れた景色ばかりである。行き帰りの通勤電車から見える風景、家の中にある家具や食器や冷蔵庫の中の野菜、ノートに鉛筆に消しゴム。そんなものに囲まれた環境で、見たままありのままを描き出すなど、ほとんど意味がないことのように思えてくる。また仮にたまの休みを使って吟行に出掛けたからと言って、必ずしも心打つ景色に出会える、というわけではない。はっと息を飲んで立ちすくみ、この風景を何としても言葉に写し取り感動を他の人々と共有しなくては、などと言うそんな景色に出会える回数は、多く見積もったってせいぜい一年の間で片手の指の数でも足りてしまうだろう。しかし多くの俳人は一カ月に一度、六句や七句と言った句数を選者に提出しなくてはならない。感動的な景色との遭遇を待っていては、とてもその句数には追い付かないのだ。




ということはどうすることが必要か。だんだん答えが見えてきたような気がする。




つまり写生句とは、いかに「見て来たように」作り、それを読者にいかに「見て来たように」感じさせるかがとても重要だということにならないだろうか。


待っていても俳句にしたいような景色は見つからない。だとしたらその景色を自分の中で作り上げるしかない。その作り上げた自分の中の理想的風景を、主観的でありながら独善的でない語彙、表現を用いてありありと描き出す。それが写生句の醍醐味だと言えそうである。もちろん写生句の全てが全くの想像から作られるなどということではない。その多くは作者が過去に見聞きした風景や景色の断片を巧妙に継ぎはぎして作られるのである。しかしある景色の断片とある景色の断片が結びあわされた時、出来上がった景色はもはや現実の景色とは異なる、この世のものではない景色となるわけである。




そうなって来ると、本題であるなぜ写生句を作ることが俳句にとって重要視されるか、ということにも一つの明確な理由が見えてきた気がする。




詩人にとって「空想力」は必然的に求められる能力である。イメージする力がなければ、想像することが好きでなければ、そもそも表現者になる理由がない。その想像力を養うのに、写生はとても適している。見て来たように写生は「待ち」の姿勢からは到底生まれ得ない。風景に対して能動的に働き掛けることによって写生はようやく成り立つと言える。その際に空想の風景に何が入れば詩的になるかを、俳人は頭の中でとやかく考える。それがその人の空想力を養うことになるのだ。その過程で感性も磨かれるであろう。




第二に語彙力、表現力が鍛えられる。いくら頭の中で素晴らしい配合がなされたとしても、それを言葉に表す能力がなくてはせっかくの風景も台無しである。それを読者の心に響くように書き留めるには、相応の表現力が求められる。つまり良い写生句を作りたければ、その分自分の語彙力を高めなくてはならない。その鍛錬に、写生句を作ることは大変適していると言えそうである。




また一回の原稿としては大変に長くなってしまった。前回、今回のまとめを、次稿にて述べさせて頂きたいと思う。



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