第12話 薄明に現れし主峰や通し鴨  中島夕貴

薄明に現れし主峰や通し鴨  中島夕貴




前回までは作家の「得意分野」ということについて書かせて頂いたのだが、「得意分野」があれば当然反対に存在するのが「苦手分野」だ。




私にとって苦手分野の筆頭に上がるのが風景詠だ。写生句と言ってもいい。今眼前にある、あるいは心の中にある景色なり風景なりをありのままに描き出す、それは私に限らず多くの作家にとっても同様に容易ではないのではないだろうか。




よく俳句では、目を利かせて作れ、と言われる。一読ふっと読者の頭の中に風景が浮かび上がるように作れ、と言われる。ややもすれば風景句が作れないうちはまだまだ半人前、とさえ言われかねない風潮がある。




なぜそこまで写生句が重要と言われるのだろうか。もともと俳句には「季語」なるものが存在し、その多くがその季節ごとの自然現象や草木、生物だったりするわけで、俳句と自然とは切っても切り離せない関係にある。だから自ずから風景とは深い因縁があることは自明の理である。




だがたったそれだけの理由では風景を写生することが俳句にとってそれほど重要だということの説明にはならない。伝統的に「見て作る」ことが俳句作家にとっていかにも大切だと言われるには、もっと大きな理由がありそうな気がするのである。




その理由を探るには、それではなぜ風景句、写生句が作りづらい、出来にくいかを考えると手っとり早いのかもしれない。私なりの見解は以下の通りである。




まず第一に、構図が作りづらい。俳句は字数が少ないから、物の遠近の関係や大小の関係、または方角の位置関係などを逐一描き出すには、いちいちその説明に言葉を費やしていてはとても容量が及ばない。画家ならばキャンバスや絵具を目一杯使って、心行くまで風景の写生に時間を費やせるだろうが、俳人はたった十七音という制約の中で、それも黒鉛筆一本だけで風景を抜きとらなければならない。それでいて「読者の心に風景が浮かぶように」など本来無茶な注文だと言える。そもそも俳句は写生には適さない詩形なのではなかろうか、とすら思われてくる。




第二に写生には作者の語彙力、表現力が問われる。山を見て「大きい」「雄大」「遠い」などの言葉しか浮かばないようでは写生句を作るのには適さない。写生句はただありのままを写し取ればそれで事足りる、というわけでは無論ない。俳句は取りも直さず「詩」であるから、完成した姿にはオリジナリティがなくては独立しない。たとえ見たままを言葉に出来たからと言って、それが万人に共通した見方、感じ方では詩としての役割を全く果たしていないと言えるだろう。見たままありのままを描きつつ、その上で作者なりの感じ方を表現しなくてはならないのだ。モネの描く睡蓮の絵には、現実を凌ぐ美しさがある。作家なりの主張がある。そこまでとは行かなくとも、せめてそれに似た心意気は要求される。




ここまでで意外にも紙幅を費やしてしまった。続きと句の鑑賞は次回に譲らせて頂くとしよう。

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