第11話 白地着て行きどころなしある如し 藤田湘子
白地着て行きどころなしある如し 藤田湘子
前回、前々回と「得意分野」について語らせて頂いたが、作家の「得意分野」というのは、その作家の「作風」に相通じる部分があるように思う。
当然「得意分野」においてはその作家が力を発揮しやすいので、自ずとその周辺での作品が多くなる。とするとそれが作家全体として見た時には、その作家独特の持ち味、「作風」に見えてくるという訳だ。
掲句は湘子がまだ二十代だった頃の作であるが、句集『途上』の頃の湘子俳句は、掲句に代表するように己の心境の有り様、変化などを抒情的な調べに託して詠うことに顕著な作風を示していた。
得意分野で俳句を作ることは俳人にとってどちらかと言えば楽である。自然と興味の湧く対象、関心の向く素材を相手にするのだから、住み慣れた環境でそれほど肩に力が入らない。
しかしだからと言って住み慣れた環境で安穏とぬるま湯に浸かっていようとすると、思わぬ落とし穴が待ち構えている。同じ作風の中にいすぎると、読者も作者も次第に飽きて刺激を受けなくなってくるのだ。
だから作者は自分のホームグラウンドを持ちつつも絶えず作風の枠を乗り越える努力をしなくてはならない。大きく言えば常に作風を変えることを意識しなくてはならない、ということだ。今まで目に入らなかった対象に目を向けるであるとか、同じものでも見る角度を変えて見るようにする、などが具体的な方法だろう。
だがそれは誰もが知っている通り、言葉で言うほど生易しいものではない。作風とはいわば口癖だ。自分でも意識せずにそれはつい口からぽろりと出てしまう。自分も他人も気がついてはいるが、それを直そうとするのは並大抵のことではない。いくら努力をしてもうまくいかないことの方が多い。
寒卵歴々とあるパツクかな 藤田湘子
これは「白地着て」からおよそ三十年後に作られた作品だが、この二句の間には大きな作風の変貌の跡が見て取れる。感傷的で傷みやすく繊細な「心境」を対象にするのが本来得意な作家が、三十年後にはスーパーで特売となっている「卵」に注目しているのである。三十年前の同じ作者だったら、俳句の素材になどしようともしなかった代物だろう。そんな瑣末なものを取り上げて一句に仕立て上げているのである。
そこには筆舌に尽くし難い困難があっただろうことは言うまでもない。しかしそれを達成させえたものは一体何か。
それはほかならぬ作家自身の探究心と向上心でしかあるまい。
自分もこの探究心を見習わなければならない。その手始めとして、とりあえず気になる口癖を戒めることから始めてみようか。
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