第9話 宇宙膨張子亀は海に還りけり 上田鷲也
宇宙膨張子亀は海に還りけり 上田鷲也
掲句は平成十一年十一月号に於いて俳誌「鷹」の巻頭を飾った作品。当時表現技法として「二物衝撃」を強く推進していた「鷹」にあっては、まさにその手本を示すような一句と言えるであろう。
これから様々な艱難辛苦を味わうであろう子亀の、その稚い姿。一生の幕開けを迎えたばかりの子亀の頼りない形。それに対して果てしなく広がり、今の瞬間もいまだ膨張を続けているという宇宙の配合。小と大、弱と強の明快ながらも奥の深い取り合わせに心を奪われる。
そして何よりも、作者の眼差しが子亀の将来に向かっているのが嬉しい。「宇宙膨張」という詠い出しは万物の不朽の成長を予感させる。今はまだよちよちと歩き、波に揉まれ海底を転げ回る子亀にも、必ずや明るい未来が待っているに違いない。この先例えどんな試練を味わいどんな困難に直面しようとも、きっと子亀はそれらを乗り越え立派に成長してくれるに違いないだろう。宇宙はどこまでも膨張する。子亀も強く逞しく成長する。そんな優しい作者の希望が私には感じられる。
さて私がこの句を強く印象に留めているのは、実はその作品の内容以外にもう一つ別の理由がある。作者はこの句で巻頭を飾った二ヶ月後の「鷹」誌上において、何と切れ字「けり」の使用を封印すると宣言したのである。
その経緯は平成十一年一月号の「鷹」に遡る。その号で作者は結社内の大きな賞の候補者として選考会に登場したのだが、結果は惜しくも落選した。その理由として、藤田湘子は作者の「けり」の多さを指摘した。
「上田君は力があるんだけど、何かそれがうまくこなれないというところがあるんだ。それが生に出ちゃう。(中略)それから、もうちょっと柔軟さが欲しい。『雀咥へて月下の猫となりにけり』『銃置きて猟夫の椅子となりにけり』(中略)、「けり」を使って悪いことはないんだけれども、いろんな表現力を身につけてほしい。」(湘子)
それから十か月後の巻頭獲得となった訳だが、その際の句がまたしても「けり」作品であった。そのことから上田鷲也氏は、己を鍛えるために「けり」の封印を「鷹」誌上で宣言したのである。
「ここは思い切って『けり』を封印する必要がありそうだ。(中略)今までなら『けり』で済ませていたはずの表現をもう一息頑張る。そして最後に、たとえ出来ても『けり』の句は発表しない。これはなかなか苦しそうだ。」(鷲也)
上田氏はその宣言の通り、「鷹」平成十三年一月号に「鵙の贄びくりと空(くう)を蹴りにけり」を発表するまで一句も「けり」を用いた作品を発表しなかった。その作者としての頑固と言えるほどの一徹な姿勢に、初学だった私はいたく感動をしたのである。
まさに作家としての「生き様」を見せられたような気がした。
何かを成し遂げようとするには相応の痛み、苦しみを伴うものである。それを肝に銘じるきっかけとなる一句であった。
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