第8話 階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石
前回、前々回に渡り俳句における「破壊」の重要性と危機感とについて述べてきた。今回もその続きである。
前にも述べたように、「破壊」ということは「意識的に」なされたものでなくては意味がない。偶発的にそうなってしまったのは単なる「破滅」即ち失敗に過ぎない。
現代、なぜ破壊的俳句が目立たなくなっているか。それは選者が「破壊」を恐れるようになっているからではないだろうか。破壊を「破壊」ではなく、「自滅」と思ってしまう選者が多くなっているように思えてならない。
安穏とした時代に生きてきた作者が選者になる。選者には当然安穏とした俳句が肌に合う。何となく刺々とした俳句は異質なものとして拒んでしまう。作者は選者に採られようとして俳句を作るから、出てくるのは自然と平々凡々たるものばかりになってしまう。
そういうことではないだろうか。
例えば、ここに一本の梅の樹があるとする。樹齢は定かではないが、それなりに古いものらしい。その梅の枝が、毎年几帳面に念入りに形を整えて剪定されているとしよう。これほどつまらないものはないのではなかろうか。
梅は自由に幹をくねらし、枝を伸ばしてある程度粗野に咲いているからこそ美しいのだ。
桜だってそうである。桜が斜めになって水面に触れんばかりに枝を伸ばしている様子は、写真家にとって格好の材料となる。一方で整然と秩序よく咲かされた桜など、せいぜい酒宴の口実か、盛上げ役にしかならない。
つまりは一定の型にはまっていないもの、一定の型をはみ出しているものの方が実際にはより人の目に感動を与えるということだ。
それがひいては草木全体の美しさを底上げしていることになる。
選者が「破壊」を「破綻」、「自滅」と即断する限り、俳句に革新はあり得ない。先細っていくばかりだ。
そうではなく、自由気儘に咲いている方が楽しい、ただしこのままいくとその樹が、即ち作者が倒れてしまうだろうという危険性がある場合に限り、ある程度剪定してやるのがいい。そうすると作者はそれとは別の枝を伸ばすことを考えるのだ。そうすることによって、幹自体がより太くたくましくなっていく。
掲句のような実験的、挑戦的な俳句が現在あまり世に見られないこと、それは選者の選句によって抹消されてしまっているか、時代が要請していないかのどちらかだろう。それは非常に危険なことだ。
むしろ我々は「破壊」に対して堂々と受けて立つのがいい。「破壊」に対して「修復」を試みるのがいい。
そうしてまた「破壊」が起こり、「修復」が起こる。そのプロセスが、俳句をよりたくましいものにしていく。
ちょうど、人の筋細胞が破壊を経て太くなっていくのと同じように。
可能性は残されている。だからその可能性を存分に生かさねばならぬ。
俳句の幹を太くするのも細くするのも、われわれの心掛け一つなのだ。
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