第7話 月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ 池田澄子
月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ 池田澄子
前稿に引き続き今回も「破壊」とういうことについて考えてみたい。
「破壊」と私が言っているのは、「破綻」というのと語義としては近いかもしれない。しかし「破綻」が「結果としてそうなった」のに対して、「破壊」は「意識してそうした」という違いがある。当然ながら、「破壊」には成功が、「破綻」には失敗がつきまとう。
破壊がないところ発達はない。人の筋肉だってそうだ。筋力に対して、本来耐えうるべき以上の負荷を掛けると筋肉痛になる。これは筋肉が破壊され、炎症を起こした状態だ。
筋肉は自らの修復を遂げるため、破壊の起こった部分に対してより太い筋細胞を作ることで補填しようとする。こうして筋肉の線が太くなる。それを科学的、効果的に行うのが筋トレだ。
破壊が起こるとは、すなわちその後でその部分がより強靭に補強されるという意味だ。逆に言えば、破壊がないところに発達を期待する言われはない、ということになる。
何でもそうだろうが、物事はすべからく破壊を伴って発展を繰り返す。俳句を例に取って見ても、河東碧梧桐らによる自由律俳句や、桑原武夫の「第二芸術論」や、第二次世界大戦の介入などにより大きな「破壊」を経験してきた。
それらの苦難を乗り越えながら、俳句は更に強くたくましく発展し、現在における隆興を収めるまでに発展を遂げたのである。
しかし戦後この方60年余り、俳句界に大きな「破壊」をもたらす出来事はあっただろうか。悲しいかな、俳句、ひいては文芸に情熱を燃やしてぎらぎらと燃えたぎっていたのは戦争を経験した世代だけ、それ以降と言ったら何だかお人好し同士仲良くつるみ合って小さく纏まってしまっている感しきりである。
掲句はと言えば、やはり旧来の俳句形式とは真向に対立して成功している。定型を壊すことばかりが「破壊」ではない。しかしやはり定型を打ち破ろうという気概くらいは持っていないと、野心的破壊的句は作れないのであろう。
掲句について、何が「破壊的」かなどくどくど申し上げるべくもない。読めば一読瞭然だろう。
私が危機を感じているのは、こういった能動的破壊行為を見せてくれているのが、還暦前後、あるいはそれ以上の年代の俳人に集中してしまっているとういことだ。
本来情熱をもって革新的表現に挑めるはずの若手作家たちは、何だか古い方にはまって安穏としているように思えてならない。
これからの俳壇を背負っていくべき世代に、気概が感じられないのである。「伝統的花鳥諷詠」の旗印のもと、皆で大人しく丸くなって肩を持ち合っているようにしか見えてならないのだ。
だがもう一度言う。破壊のないところに、発展はない。破壊されない筋肉は、次第に痩せて細くなっていくばかりだ。
今回も紙幅が足りなくなった。また次回に続きを語らせて頂くとしよう。
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