第6話 蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ  小澤實

蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ  小澤實




早いもので今年もあと2カ月を残すばかりとなった。時の過ぎる早さの恐ろしさを、年を経るごとに実感する。




掲句は今から十年ほど前、私がたまたま俳誌『鷹』の古い号を閲覧していた時に目にした一句だ。もうどれくらい前の作品になるのか定かには分からないが、昭和61年刊の小澤實句集『砧』に収録されているというから、少なく見積もっても25年以上は前に作られた作品ということになるだろう。




私がこの句を一目見て気に入り、その後永らく愛唱し続けているのは、この句が形式的にも内容的にも際立って特異に作られているという理由からだろう。




その後やはり『鷹』の中で、四ッ谷龍氏が掲句を評して、「季語が安直だから再考されたい」というようなことを書いていたように記憶しているが、私は「蛭泳ぐ」はほどよく意外性があり離れすぎてもいず、一句の意味不明感を更に煽り立てているようで悪くないと、いやむしろ掲句には最適だと思った。小澤氏がそのままの形で句集に掲載したというのは、氏にとってもやはり手応えのある下五だったのだと思う。




さて掲句を考える時、私の脳裏には常に「破壊」という言葉が浮かび上がるのである。掲句はまさに、俳句形式の破壊そのものである。「蛇口の構造に関する論考」などという、詩性とは全く程遠いところにある言葉を、リズムこそ保持しているものの無理やり五七五の「定型」の中に押し込んでいる。明らかに器から言葉がはみ出しているのに、作者はむしろ「これでどうだ」としたり顔である。そして間髪入れず「蛭泳ぐ」という、一般的には目を背けたくなる対象に焦点を定めている。




無関係にもほどがある。「蛇口の構造に関する論考」と「蛭」、あなたは一体そんな下らない二つのものを繋げて、何を言わんとしているのか。そう作者に問い掛けたくなった瞬間、読者はすでに作者の巧妙な罠の中に入り込んでいるのである。




手品師はトランプのマジックの合間に、突然レモンを取り出す。レモンを切ると、その中には先ほど観衆の一人がサインをしたばかりの一枚のカードが入っている。




または三つのカップの中に一つの小さなゴム毬を入れて、両手を使ってカップを二つずつ右へ左へ中央へ入れ替えて行く。観衆はやがてゴム毬の行方を見失う。その頃合いを見計らって、マジシャンは突如としてカップの中からゴム毬ではなく一個のレモンを出して見せる。




観衆は突然目の前にあるべきはずのないものが表れて、目を奪われる。心をつかみ取られる。論理が破壊される。それが快感となる。




掲句などは、正にそれと同じ現象が言葉の中で起こっていると言っていいだろう。




「破壊」ということについて書こうと思ったら、意外にも紙幅を取ってしまった。本題については、次稿に譲ることとしよう。

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