第4話 蛇衣を脱ぐ痛くない放射能  加藤静夫

蛇衣を脱ぐ痛くない放射能  加藤静夫




加藤静夫さんは私の憧れる俳人の一人である。現俳壇の中で誰の作品を楽しみにしているかと問われれば、私は真っ先に加藤静夫さんの名を挙げるであろう。




常に新しい目で身の回りの動きを見詰め、時にユーモラスに、時に皮肉たっぷりに現代社会の一こまを切り取り描き出していく。




その挑戦的な姿勢とそれを可能にする盤石の表現技術から生み出される静夫作品は、当然のように時代の最先端を突っ走っている。俳句に持ち込むのは不可能と思われる言葉でさえ、静夫さんの手に掛かればいとも簡単に五七五の中で七色の光を帯び輝き始めるのである。




「手垢まみれの」などという評言は、恐らく静夫作品には一生無縁だろう。それよりも時代が静夫作品の感性にどこまでついて行けるかの方が問題だ。




静夫作品に置き去りにされないように、私たちも感性を研ぎ澄ませておく必要がある。




さて、話題は今年起こった震災のことに変わる。1995年に発生した阪神淡路大震災においては、弁当持ちで被災地に「吟行」に行くなどという一部の俳人の愚行が露見し、俳人の俳人としての在り方が議論されたものだ。




今回はさすがにそんなことはなかったことと願いたいが、新しもの好きの俳人にとって、これは今後も切っても切れない問題となり続けるだろう。




災害を俳句の題材にしてはならないということはない。ただしその契機が、何となく社会の関心がそちらの方に向いているから、であるとか、何となくみんなが注目しているから、私もそれに便乗して一句稼ぎたい、などという浅はかな理由からなのだとしたら、作らない方がいい。




人が死んでいるのである。人が泣いているのである。災害の句を作りたいなら、そのことをちゃんと肝に銘じて、社会を励ますのだ、だとか、これでいいのかと社会に問い掛けるのだ、という確固たる覚悟を以て臨まなければならない。




今から1か月前の9月20日、心の痛むニュースが報道された。愛知県のとある花火大会で、予定していた福島県の花火の打ち上げを急遽中止した、というのだ。




その理由が、花火玉や花火を運ぶ車が放射能汚染されているのではないかと懸念し、地元住民数名が市役所に寄せた苦情の声のためだったという。




私はその報道を耳にした時、思わず落胆の溜め息をついた。せっかく福島県を励まそうと企画された計画が、却って福島県に与えずともよい絶望を与えてしまったのだから。




心配だという住民の声も分かる。ただ仮に花火玉が放射能を被っていたとして、その量が一体幾ばくのものだというのか。




その程度の放射能量だったら、あなたの前を走っている自動車の排気ガスの方がどれほどあなたやあなたの家族の体に深刻な害を与えていると思っているのだろうか。


心配なのは分かる。しかし神経質になりすぎるのはよくない。




9月20日の報道を聞いて、私の頭の中にはふと掲句がよぎった。




「痛くない放射能」。――それは私たちにこう教えているようだ。




「安心しなさい。放射能なんて、痛くも痒くもないのですよ。今までだって、全然気がつかないうちにたくさんの放射能を浴びていたのですよ。今頃、ちょっと放射能を浴びたからって何ですか。今よりずっと劣悪な環境問題にさらされて来た人たちが、今の日本の長寿大国を作り上げているのですよ。気にしなさんな。気にしない、気にしない」




実は「静夫作品ならこれ」という一句があるのだが、その紹介はまたの機会に譲らせて頂くことにしたい。

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