3-7 崩れる均衡

「――このままではジリ貧だな」


 テオギア王国王都テオドールの中心、王城に設けられた会議室。

 リッツバード王国軍の将としてやってきた、カーマイン・グレイシオの口から吐き捨てるように呟かれた現実は、まさしくその場にいる誰もが思っている事であった。


 王都テオドールの周辺は魔族率いる魔物の軍勢に包囲され、『人族同盟』の頼みの綱とも言えるエルセラバルド帝国が用いる兵器――〈アルヴァ〉の投入もできないという状況であった。

 幸いにも食糧に備蓄はあるものの、後方から支給される食糧に対して消費されていく量は明らかに足りておらず、徐々に逼迫しつつある。戦況が膠着しているような今の状況では、満足に食事をするどころか空腹を凌ぐ程度しか口にできない状況であった。


「多少の飢餓感は剣を鋭くさせるが、判断を鈍らせる。我々のように裏方に回る者が贅沢するぐらいならば、前線で戦う者達にしっかりと食わせる方が良い」


「確かにそうですな」


 カーマインに向けて答えたのは、エルセラバルド帝国より派遣されたブルーノ・ヘルマンである。

 奇しくもここにいる二人は、かつて『本物の勇者』が『陽を跨ぐ者デイウォーカー』イレイアらと戦ったあの戦場で、互いに敵将同士として相対していた二人であった。


 リッツバード王国に攻め込んできた部隊を率いていたブルーノに対して、ブルーノよりも幾分かは若いカーマインにとってみれば禍根が残りそうな立場ではあるのだが、カーマインにそういった感情は一切ない。

 同様に、竹を割ったような武人らしい性格をしているブルーノもまた、“かつては敵対していた”という事実は理解しているが、そこに含むものはなかった。

 そうして今、かつての敵は今、『人族同盟』という立場で互いに肩を並べているのだ。


 お互いに半年程前の戦いでは、勝敗も何もなかった。

 突如としてやってきた『本物の勇者』と魔王達の戦いによって、戦争どころの騒ぎではなくなってしまったのだが――それでも、“成果をあげていない”という理由だけで攻撃するのが貴族という生き物である。

 カーマインもブルーノも、虎視眈々と二人を追いやりたい者達の槍玉に上げられ、ここぞとばかりに閑職へと追いやられ、こうして最前線へと送られる事になったのである。


「打って出る、と言いたいところではあるのだがな。我々が表に出て戦おうにも、万が一にも抜かれてしまえば民衆に危険が及ぶであろう」


 防衛に戦力を集中させて、ようやく耐えているのが現状である。少しでも分散すればバランスが崩れかねない、まさしく綱渡りの状況というのが今のテオドールだ。下手に動こうものなら、その穴から一気に瓦解しかねない事ぐらい、ブルーノとて理解している。


「せめてアルフ殿が、我々をもう少しぐらい信頼してくれれば、な」


「無理もないでしょう。我々は半年前まで戦争していた者同士です。下手に揉め事を起こされるぐらいなら、こうして半ば軟禁している方がやりやすい。私が彼の立場ならそう思うものです」


「やれやれ。割り切っているんだがなぁ……」


 現在も防衛で責任者として防壁に陣取っているのは、このテオドールの勝手知ったるテオギア王国軍の将――アルフ・リンドであり、カーマインとブルーノはあくまでも裏方に回っているような状況だ。

 当然、こうして会議をしても何かが好転する訳でもない。

 それを知りながらも何もできないまま呆然とするよりは、何かが思いつくかもしれないという、僅かな希望に縋っているような状況であった。


 いつも通りとも言える沈黙が流れようとする、そんな時であった。


「――し、失礼致します!」


 突如として会議室の扉が開かれ、やってきたのは血相を変えた一人の伝令。

 何事かと視線を向ければ、若い男は続けた。


「防壁の一部が崩壊! 抑えに向かったリンド将軍も魔物に襲われ、戦死しました……!」


 均衡が破られたのは、未だルーファら一行がテオドールへと足を踏み入れるよりも早い段階であった。








 ◆ ◆ ◆









 ――神の使いである『勇者』を見極め、可能であれば倒す。

 魔王アゼルの意に反するような目的を達する為に、エイヴァンは魔王城へとやって来ていた。

 当然ながら、予定されていた謁見ではない事もあってか、アゼルは謁見の間ではなく執務室にいる。先触れとして面会の約束を伝えてこそもらったものの、エイヴァンがアゼルの執務室へと向かうというのは初めてであり、奇妙な緊張感に包まれていた。


「――――――」


 夢魔族の一人が案内する先、アゼルの執務室へとやって来たエイヴァンの耳に、くぐもった女の声が聞こえてきた。何かに耐えながら声を押し殺すような、艶っぽさすら感じられる声に、思わずエイヴァンが歩みを止めた。

 当然、エイヴァンが雄であるから等という、そういった下世話な話ではない。

 エイヴァンの脳裏を過ぎったのは、アゼルがもしもそういった行為に及んでいるのであれば、その邪魔をして機嫌を損ねるというのは非常にマズイだろうと考えたからだ。


 エイヴァンを案内していた夢魔族の女にも、当然ながらにその声は聞こえているはず。ならば、この状況で魔王の邪魔をするような真似はしないだろうと考えつつも、一応は呼び止めるべきかと口を開くエイヴァンより先に、夢魔族の女は一切声など気にした様子もなく執務室の扉をノックした。


 ――ピタリ、と音が止まる。

 それは同時に、エイヴァンにとってもそれは己の命の終焉を感じ取るような、そんな気分であった。


「陛下、〈黒竜〉の長がお見えです」


「――入れ」


 まるで何事もなかったかのように入室を促され、夢魔の女は扉を開け、そのまま扉の横へと移動して一礼する。

 そう、中の様子を見る事もなく、である。

 この状況で自分がどんな顔をして入れば良いのかと複雑な心境を抱きながらも、アゼルを待たせる訳にはいかないと考えたエイヴァンは一度深呼吸すると、ゆっくりと開け放たれた扉の前へと歩み出た。


 部屋の中は、お世辞にも執務室としては不十分なものであった。

 資料などが置かれている本棚なのが一般的であるはずが、アゼルの執務室にはそういったものは存在していない。その代わり、人族の大陸から夢魔族を通して手に入れてきた多くの書物が平積みされていた。


 意を決してアゼルに目を向ければ、決して何か情事に耽っていた訳でもなく、椅子に腰掛けたネフェリアの額に指を当てながら、己の魔力を操って何かを施している最中であったようだ。淡い光がアゼルの指先から、ネフェリアの身体全体を覆っていくように見える。


 やがてその光は徐々に薄く弱まり、ネフェリアの豊満な胸元へと消えていった。


「……終わりだ」


「ん……っ、はい……」


 紅潮した肌のまま、余韻に浸るように恍惚とした表情を浮かべていたネフェリアが絞り出すように告げる。

 ただでさえ妖艶な色香の溢れる女性であるネフェリアが、恍惚とした表情で息を整える。男ならば生唾を飲むような光景である。しかしその後ろに立っていたアゼルはネフェリアには目を向けず、己の手をしばし見つめたまま何かを確認するように手を握っては開いてと繰り返していた。


「調子はどうだ?」


「……恐らく、成功しているかと。これまで感じた事のない力が身の内に溢れているように思えます」


「そうか。では、予定通りリリイの所で続きを頼む」


「はい」


 すれ違い様に「よくも邪魔してくれたな」とでも言いたげにひと睨みしつつ部屋を出て行くネフェリアを見送りつつ、エイヴァンは室内に足を踏み入れる。同時に、エイヴァンは重苦しく、息苦しさすら覚える程の濃密な力に目を剥いた。

 部屋の入り口からたった一歩踏み入れただけで、まったく異なる世界に足を踏み入れるような錯覚に、エイヴァンは思わず視線を彷徨わせた。


「大丈夫か?」


「は、はっ! 申し訳ありません、あまりの変化に思わず……」


「ただの魔族だったら力に気を失うかもしれないが、エイヴァンなら大丈夫だろう?」


 部屋の中へ一歩踏み入れただけで分かる、濃密な魔力の気配。確かにその密度は息苦しさを覚え、弱い者では息もできないような環境であった。しかし言下に「この程度ならば耐えられるだろう」といったアゼルの意思を汲み取り、エイヴァンは頷いて答えた。


「これは一体……?」


「ちょっとした実験とでも思ってくれればいい。もっとも、うまくいくかどうかはまだ判らないが。ともかく座ってくれ。俺に話があるんだろう?」


 重厚な木造の机越しに向かい合うように置かれた椅子に腰掛けつつ、エイヴァンはどう切り出すべきかと逡巡する。

 アゼルは特に何か構えるような姿勢も見せておらず、以前から感じられるような穏やかな――否、どこか無感情とも言える静けさを漂わせている。だからこそ、余計にエイヴァンは言葉を選ばねばならなかった。


 アゼルという男のどこに逆鱗があるのかを知る人物は、魔王軍に存在していない。


 たとえばアゼルが契約した武器――サリュという少女の場合、“アゼルに敵対する者、アゼルと無関係な者”を攻撃対象として見定めるという危険性はあるが、それはある意味では判断しやすい基準でもある。アゼルが身内として定めている魔王軍であったり、魔都アンラ・マンユに棲まう者ならば敵対しないという大前提があるのだから。


 しかし、アゼルは違う。

 謎に包まれていると言えば聞こえは良いが、それは同時に“判断に困る”という意味も孕んでいる。

 ヴェクターのような生意気な態度に対しても寛大な対応をしてみせてはいたが、しかし決してアゼルとて感情が存在していない訳ではない。


 イレイアがアディストリア大陸に勝手に攻め込んだ頃も、それからも、ネフェリアが「何かがうまくいかずに苛立っているようです」と零しながら、面会を断る素振りを見せていた事もある。


 まして、此度の提案はアゼルの意に反するものだ。

 十中八九、アゼルとしても面白い話にはならないだろう事は予測できた。


「――『勇者』が気になるか?」


 どう切り出せば良いものかと悩むエイヴァンにとって、その問いかけは虚を衝かれるものであった。

 アゼルが切り出してくるとも思っていなかった上に、まさかエイヴァンがここにやって来た本題を正確に見抜いた問いかけをしてくるとは思いもよらなかった。


「……ここに来た理由を?」


「なんとなく察してはいたし、そろそろ来るだろうと思っていた。もっとも、それが誰になるかまでは考えていなかったが」


 アゼルとて、『真なる勇者』を放っておけと口にしたものの、誰かしらはそんな命令に異を唱えるだろう事は予測していた。

 常識的に、『魔王』にとって『勇者』がどれだけ危険視するべき存在であるかと考えれば、アゼルが放置するようにと告げた命令は明らかにおかしいのだから。


「正直に言えば、キミかバロムのどちらかだろうと思っていた。初代魔王ジヴォーグの時代を知り、初代勇者を知るキミ達だろう、とね」


「それを言えば、ゾルディアも該当しますぞ?」


「彼は俺の判断を支持するさ。間違った命令ならば諫言も口にするだろうけれど、あの時、俺が『勇者』に対して接触するなと言った時に何も言わなかった時点で、候補から外れているよ。もっとも、その場合はバロムの方が可能性としては高かったけれど」


 バロムは『勇者の末裔』であるアレンと戦い、加護に苦戦した。技量や膂力は当然ながらバロムに軍配が上がるものの、加護という魔族を拒む力によって致命的な攻撃を与えられなかった。そういった経験もあって、誰よりも『勇者』を警戒している可能性が高い。

 しかしどうやら、バロムは自分が考えている以上にアゼルという魔王を信用しているようだ、とアゼルは考える。


「陛下、儂に『勇者』と一戦交える許可をいただきたい」


「イレイアなら『加護』に抵抗する力を持っているし、構わない。けれどエイヴァン、キミにそんな力があるのかい?」


「……いえ、ありませぬ。ですが――」


 エイヴァンは己の胸の内にある心情をゆっくりとアゼルへ語っていく。

 現在の〈黒竜〉の立場はともかく、もしもこの戦いで死ぬ事になろうとも、それがある意味では増長しつつある弱い魔族達への警鐘となるであろう事も含めて、決して無駄にはならないだろう、と。

 そうしたエイヴァンの話を静かに聞いていたアゼルは、やがてゆっくりと口を開いた。


「いいだろう。ただし、一つだけ条件がある」


 アゼルの言葉に、エイヴァンは迷う事なく頷いたのであった。

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