3-6 戦場へ
――――魔大陸、〈黒竜〉が棲まう山。
人の姿に変わる事もできる〈黒竜〉という種族だが、それは同時に窮屈さを覚える行為でもある。そのため、魔王城や魔都へと赴く際には人の姿をしているものの、当然ながらに彼らの住処では竜そのものの姿をする者の方が多く、それは種としても当然であると言えた。
長命であり、子孫を残す必要性の少ない竜という生き物は、比較的数も少ない。数字の上だけで見るのならば、その数は十にも満たない程である。
もっとも、一頭の竜が存在するだけでも人の国にとっては脅威である以上、この場所は人にとってみれば絶望そのものといったところではあるのだが。
その中にあって、一際巨躯を誇る巨躯が横たわりながらも思案に耽っている。
――現〈黒竜〉の長、エイヴァン。
周囲の黒竜に比べても一際大きく、強大な力を持つが故の圧倒的な威圧感を纏っていた。
日頃より長であるエイヴァンには近寄り難いものではあるが、ここ数日のエイヴァンは奇妙な静けさを纏っているばかりで、近寄り難い空気に拍車がかかっている。
絶対的強者である長の周囲にいようものなら、何がきっかけで己に火の粉が降りかかるやもしれないと戦々恐々とした周囲の竜も、エイヴァンの視界には入らぬように離れつつある。
そんなエイヴァンに向かって、一人の若い男――ヴェクターが人の姿をしたまま歩み寄っていく。
「よぉ、親父。来てやったぜ」
一族の長に対して、あまりにも不遜とも言える態度を取るヴェクターであったが、エイヴァンは特にそれを気にするような素振りも見せず、ただただ巨大な目を向けていた。
次代の長として実力こそ認められていたものの、素行の悪さや生来の喧嘩っ早い性格などから、まだまだ若さ故の暴走として受け止められてきたヴェクターの言動ではあるが、言葉に含まれる棘の少なさにエイヴァンは僅かに感心していた。
――変わったな。
魔王アゼルの登場以来、魔大陸は幾つもの大きな変化を迎え、まさに黎明期といった有様ではある。同時に多くの者達が変わりつつあった。
独立独歩の風潮が強い魔族は、どうしても種族同士でのみ交流し、獣魔と呼ばれるランが率いる者達や、ガダの率いる鬼の一族はともかく、他の種族と友好的に付き合う者は珍しい。
しかし今、魔族は魔王の下で集まり、“同族”という括りの中に魔族そのものを入れている者も徐々に増えてきた程だ。
そうした大きな変化と共に齎された、まだまだ年若い息子の変化についつい感じ入るものがありながらも、エイヴァンは口を開いた。
「人の姿を好んで取るとは、以前のお前では考えられない光景だな」
「あぁ? あー、まぁ何かとこっちの姿の方が便利だからな。俺が相手にしてる連中、竜の姿だと嬉々として的にしてきやがるしな……」
「う、うむぅ……。そうか……」
エイヴァンに答えつつも、遠い虚空を見つめながら「俺も丸くなったな」等とヴェクターが言いたくなる気持ちは、この数ヶ月の彼を見ていれば誰もが同情を寄せたくなるようなものであった。
アゼルとの一騎打ち――と言えば聞こえは良いが、実際は一方的な敗北――以来、ヴェクターは己の抱く“強さ”に対する価値観を大きく塗り替えられた。
かつては圧倒的な力と魔力を利用したブレスによる理不尽な一撃こそが“強さ”だと考えていたが、今では違う。小細工だと鼻で笑っていたはずの細やかな攻撃や、非力と見下していた相手に尽く負け通しなのだ。変われない程、馬鹿ではない。
――化物しかいねェ。
それが、ヴェクターが魔王アゼルの周囲にいる者達に対して抱いている、正直な感想である。
認識を改めざるを得なくなったのは、そもそも戦闘能力としてはあまり高くないと思い込んでいた、蜘蛛魔族の母――ヴェルファータの存在があった。
竜の姿を取ろうものならば数瞬の間に強靭な糸で縛り上げられ、攻撃を避けられてしまう。竜の鱗すらもあっさりと斬り裂く糸に包囲され、「お主はアレじゃな、力押しだけで頭が悪い」と鼻で笑いながら小馬鹿にされたのは苦い記憶だ。
そんなヴェルファータですら恐れる相手が――意外にも夢魔族であった。
幻術を一瞬で展開するという夢魔族は、目が合ったその瞬間に現実と虚実を混ぜてくるとさえ言われており、ヴェルファータから言わせれば「魔族の中でも理不尽の代表格」である。
事実、〈角〉と呼ばれる夢魔族の戦闘を生業としている者達の代表であるエニスと手合わせをしたヴェクターであったが、結果は惨敗。一撃をお見舞いするどころか、戦闘開始と同時に幻術に絡め取られるという、あまりにも一方的な、戦いと呼ぶのも烏滸がましい結果に終わった。
ランやガダに至っては、配下の指導で忙しそうにしており、「手合わせしようゼ」等と言おうものなら「この暇人が」とでも言いたげな視線を向けられる。実際にそうなったのだからヴェクターもやるせない。
その他にも、『
その側近であるアルマ――殺気だけで息を止められ、気がつけば空を仰ぐ始末。
実力が未知数である『
ゾルディアとバロムに至っては、そもそも手合わせすら頼める程の実力に自分が追いついていないと実感している。
最早ヴェクターに、かつての傲慢さを維持していられる程の根拠は何一つない。
そんな息子の姿を見て叱咤激励しようものなら、「じゃあアンタも戦ってみろよ」と言われるのがオチであるだけに、エイヴァンには何も言えなかった。
魔族の中でも最高峰の実力者であるとされる〈黒竜〉とて、上には上がいるのだとまざまざと見せつけられているのが現状であった。
「んで、なんだよ?」
「うむ……。此度の『勇者』、儂は前線へ見極めに行くつもりだ」
「は……? 正気かよ」
アゼルの命令では、今は『勇者』に対して接触するべきではないとされている。この状況で下手に独断専行しようものなら、一体どういった罰を与えられるかも分からない、というのが現状だ。
そんな中で前線へと赴くというエイヴァンの判断は、アゼルの意思に反する。それはつまり、一歩間違えれば側近達すら敵に回しかねない代物であった。
それでも、エイヴァンは静かに続けた。
「最近の魔王軍は、下の者に機会を与えていると言えば聞こえは良いかもしれぬが、温い。人族は放置しておけば、時折厄介な英雄を生み出す事もある。このまま放っておいて、取り返しにつかない事になる訳にはいかぬのだ」
それに――とエイヴァンは続けた。
「我らは〈黒竜〉。魔族の中で最高峰に位置する実力ある種族だ。お前が陛下に負け、周りに鍛えられ始めて以来、我らを侮る者さえいるのだぞ。そういった輩を放っておいても良いと言うつもりか?」
「……ハッ、馬鹿げてやがる。確かにそいつぁ癪に障るな。――けどよぉ、今の魔王軍で下手な真似して、魔王がそれを許してくれるとも限らねェんじゃねーのか?」
「だろうな。故に、儂が直接陛下に許可を取るつもりだ」
魔王アゼル。
この一年足らずの内に魔大陸内の多くを魅了し、人族に魔王ありと知らしめたアゼルの力はすでに魔王として確固たるものを築いてきた。
今のアゼルに刃向かえば、当然ながらに周りの側近達もまた敵に回る可能性がある事ぐらいはエイヴァンとて理解している。加えて、それらを己の力のみで切り抜けられると考える程、浅はかでもなかった。
「陛下ならば、無下に断る事はないだろう。しかし、『勇者』の実力が不透明な今、儂が同胞を引き連れて向かう訳にも、同胞を束ねる立場のまま『勇者』と対峙する訳にもいかぬ。――故にヴェクターよ、お前を新たな長として任命する」
かつてのヴェクターならば、その言葉を待っていたと喜ぶものだった。
若くも〈黒竜〉の一族の中でもずば抜けた実力もあり、戦闘に関するセンスで言えば彼に及ぶ程の者もいない。ヴェクター自身、そんな己の実力と立場を理解していたからこそ、次代の長となるつもりであったし、早くそれを認めさせたかったと気が逸っていた部分もあった。
しかしヴェクターの反応は、どこか不満げに眉をひそめ、エイヴァンをじっと見つめるだけに留まっていた。
「なんだ、ヴェクターよ。不満か?」
「不満かっつったら、まぁ不満だな。俺ぁ確かに〈黒竜〉の中では強ェだろうさ。魔族の中で考えても、種族的にも、な。だが、上には上がいるって知っちまった今、まだまだ俺が一人前だとは到底言える気がしねェ」
「ふむ。そう思えるのなら、お前も少しは大人になったという事であろう」
――欲を言えば、せめてアゼルとの一件が起こる前にこうした成長をしてくれていたのなら、とエイヴァンも思わずにはいられない。
現状、〈黒竜〉に対するゾルディアらの目の冷たさは、一度でも魔王アゼルに牙を剥いた一族故に向けられている。実力こそは一目こそ置かれてはいるものの、どうしてもヴェクターの一件もあってか下に見られているのだ。
もちろんエイヴァンとて、それらをただただ受け止める、等というつもりはない。
汚名を雪ぐ為にも、今は目に見えた功績が何よりも効果的であると考えていた。
そして、それに相応しい功績と言えば――やはり魔族にとって、魔王にとっての敵である存在。『勇者』が格好の獲物でもあるというのは本音だ。
しかし――――
「親父。アンタ、死ぬ気かよ」
――――エイヴァンの想いを見透かすように、ヴェクターが訊ねた。
ただ『勇者』の実力を見るだけならば、こうも身辺整理をして『勇者』に挑むような真似をする必要はない。ヴェクターには、エイヴァンが自らの死すらも視野に入れて行動しようとしているように見えてならなかった。
そうしたエイヴァンの心情を推し量るようにヴェクターがまっすぐエイヴァンを見つめていると、エイヴァンの視線は初めてヴェクターから離れ、空を捉えた。
「赫空が割れ、懐かしき蒼穹が広がっている。儂のように、この蒼穹を懐かしく思う者は、過去の時代に生きた証左。今代の魔王陛下、そして次代の長であるお前達の時代の為に、儂らのような古株がやれる事と言えば、糧となる事ぐらいであろう」
確かに、〈黒竜〉の現状を打破する為に、という理由もエイヴァンにはある。
しかし、神の使いである『勇者』。初代勇者と同様か、或いはそれ以上の力を秘めていてもおかしくはない相手だ。
そのような存在を放っておけば、かつての二の舞いになりかねないと危惧しているのも事実であった。
「正面から対峙すれば、恐らく儂は負けるであろう。それ程までに『勇者』という存在は厄介なのだ。だが、もしも負けたとしても失うものはない。いっそ得るものの方が多い。儂が倒せる程度なのか、はたまた『勇者』の危険性を知らしめる事になるか。どちらにせよ、な」
巨躯をゆっくりと起こしながら、何かを言いたげなヴェクターの視線に胸の内で苦笑しつつもエイヴァンは続けた。
「なに、死に場所を求めている訳ではない。そう不安そうにするな」
「べ、別に不安になんか思っちゃいねぇよ!」
「くくっ、そうか。――ではな」
佇むヴェクターを尻目に、エイヴァンは魔王城へと向かって羽ばたいていった。
◆ ◆ ◆
アールスハイド神聖国を出たルーファら勇者一行の旅程は、以前ノエルらが利用したような転移魔法陣を使わず、馬車を利用するという些か面倒なものとなっていた。
現状の人族の感情を慮った上で、敢えて『勇者』――神の使いという存在が前線へと向かう姿を見せつける。
そういった政治的な背景が理解できない訳ではないが、こうしている時間も惜しいのだと気が急く『聖女』エーティア。
一方でルーファとノエルはそういった気持ちなど一切感じられない素振りを続けている。馬車から外を眺めて騒ぐノエルと、時折ルーファがノエルに落ち着くように窘めるという、まるで旅行中の仲の良い姉妹のようだ。
「……二人共、落ち着いていらっしゃいますね」
「落ち着かないよー。お尻痛いし」
「ノエルはともかく、ボクは別に。焦ったところで、何かが変わる訳じゃないしね」
八つ当たりめいた棘を含んだ物言いであったが、相手が悪い。
そもそもノエルに関して言えば、「今回は馬車なんだね」といった感想しか抱いていない上に、ルーファに至っては「人族がどうなろうと興味はない」といった心情である。
ルーファが教皇マルレーナや枢機卿団を前に告げた言葉についてはエーティアも聞かされている。人族に対して今回は味方こそするが、絶対的な守護者のような立ち位置にはいないという点も理解はしている。
とは言うものの、エーティアにとってルーファは神の代弁者。
当然そのような存在に、人が文句を言うのもお門違いであり、ルーファの言葉を絶対視している節もある。
なので、エーティアに下手な事を言わないでおこうと密かにルーファが心の中で固く誓っていたりもするのだが、それはさて置き。
「それで、戦況はどうなっているの?」
「テオギア王国の王都は山間にあります。堅牢な防壁に囲まれており、小高い位置に建てられているので、防衛面ではかなり優れた立地です。加えて、周りを囲もうにも流れの早い深い川もあります。比較的持ち堪えていると言えますが……」
言い淀む素振りを見せた後で、エーティアは続けた。
「そうした立地がかえって孤立を深めているのも事実です。山の中を通る隠し通路から物資の搬入は可能なのですが、エルセラバルドの魔導兵器などはそうした通路も通れず、魔物の群れを突破して進まない限りはなかなか追加もできないようです」
「ねーねー、それって人がもっと来れば突破できるんじゃないのー?」
「それがそうもいかないのですよ。確かにテオギア王国が最前線ではありますが、人族の戦力を集中させ過ぎると、即座に手薄になった箇所に攻め込まれてしまいます。実際、そうして人族はここまで追いやられているのですから」
魔族側の判断は早く、戦力的に増員されたと知るなり即座に標的を変え、他の町での攻撃を分厚くする。そのせいで、必然的に戦力を分散せざるを得ない状況に追い込まれているというのが人族側の実情である。
中でも最悪だと言えるのが、こうした状況を作り出す上で、現在のところ攻め込んできた地域に魔王やその他、魔族の重鎮らが姿を見せている訳でもないというのに、一切押し返せないという点だ。
もしも賭けに出て一箇所でも押し返そうとしようものなら、その瞬間に手薄となった場所に魔王軍の幹部が姿を現すかもしれないという見えない恐怖もあってか、なかなかに人族側の動きが遅くなっていた。
「幸い、『勇者の末裔』に数がいるので、そうした方々が『人族同盟』の戦闘を引っ張ってくれているおかげで、膠着状態になっているというのが実情です。本来なら……いえ、なんでもありません」
目の前の一人――『本物の勇者』と呼ばれていたノエル。彼女とシルヴィ、ロザリーこそがアールスハイド神聖国が抱えていた秘密兵器であり、こうした際に活躍してもらう予定ではあったのだ。
しかしそれは『
ノエルはエーティアが言わんとする事を理解できなかったようだが、ルーファはそうした背景を読み取ったのか、小さく嘆息する。
「――それで、ボクが戦う相手っていうのは、王都を攻める魔物でいいのかな?」
「……えぇ、その通りです」
己の失言を察して流れを変えたルーファに目礼しながら、エーティアは更に続けた。
「魔王軍と名乗る魔族達ですが、テオギア王国を攻める者達の中に大物――名が知れているような古い魔族の存在も確認されておりません。恐らくはそうなるかと。ともあれ、まずは隠し通路を用いて中へと入る予定となっております」
「その通路は安全なんだね?」
「今のところ、魔族に感知されている形跡はないようです。中の者達と共闘する為にも、一度は中へ入って……」
「共闘はしないよ。魔物と戦うのは、ボクがやる」
「わたしもー!」
軽い様子で同調するノエルとは裏腹に、ルーファの射抜くような剣呑とした光を宿した瞳は、馬車の窓の外に映る暗雲を映し出していた。
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