Ⅲ 『勇者』と『魔王』
3-0 Prologue
アールスハイド神聖国、大聖堂。
枢機卿団を含む光神教のお偉方とでも呼ぶべき者たちが見つめる視線の先で、教皇――マルレーナ・ストルキオが真っ白な部屋の内部に魔法陣を描き上げていた。
「……ずいぶんと複雑な魔法陣、ですな」
「うむ。あのような紋様は見た事もない」
事の発端を、枢機卿団は知らない。
ただ突然に呼び出され、ようやく到着してみれば朝からずっとマルレーナが魔法陣を描き続けているのだと言われ、その事態を見守る事しかできなかった。
何せマルレーナに声をかけようにも、彼女の必死の形相にはお世辞にも横槍を入れる事ができるような、そんな空気は微塵も感じられないのだから。
太陽は中天に上り、そして遂には陽も傾こうかという頃――ついにマルレーナが手を止めた。
「……これで、問題ないはず……」
一頻り魔法陣の紋様を眺めた後で告げるマルレーナの一声。
ようやくと周囲に居並ぶ者らが口を開きかけたところで、刹那、魔法陣が徐々に淡い光を――そして、徐々に室内を埋め尽くす程の強烈な光が、その場を埋め尽くした。
唐突に訪れた光の奔流に狼狽する一行を他所に、マルレーナはただ膝を折り、深々と頭を垂れた。
光の収束にかかる時間は、ほんの僅か。
その向こう側に現れ、瞑目した一人の女性――およそ十代半ばとも言えるような少女の姿を目の当たりにした誰もが、少女から放たれる威容に呑まれ、膝を折る。
――神か、或いは天使か。
半ば強引に心に刻まれる理解に、困惑する余地すらない。
ただ枢機卿団も光神教の居並ぶ者らも、等しく直視できずに膝を折るのが精一杯であった。
一方で光の中から現れた少女は、ゆっくりと瞼を押し上げた。
自らの身体の一挙手一投足を噛みしめるように、確認するかのように手を握り締めてみたりと、まるで肉体というものを初めて操るかのような素振りを見せるが、周囲の誰もが少女に対して頭を垂れたままであるおかげで気付かない。
少女が一通りの確認を終えたところで、桜色の唇をゆっくりと動かした。
「――顔をあげるといいよ」
まるでそれは、気安い友へと語りかけるような物言いである。
本来なら、誰もが言葉に注意を払わなくてはならない教皇マルレーナに対して、明らかに対等か、いっそ下に見るような口調だとも言える。
それでも、そこにいる者らの口からも注意や叱責が飛ぶはずもなく、教皇であるマルレーナでさえも恐る恐るといった様子で顔をあげるのが精一杯であった。
そんな反応を見て、少女は何かに気が付いたかのように「あぁ」と身体から放つ神の気――神気を押さえ込んだ。
「ごめんよ、まだ身体の扱いに慣れていないんだ」
「……あなた様は、神託にあった神の使い――『真なる勇者』で相違ありませんか?」
「おおかた間違ってはいないね。魔王アゼルを止める為に――殺す為にこの世界に降り立ったという意味では、だけど」
少女の一言に、その場にいた誰かから、或いは一斉に「おぉ」と驚愕の声があがった。
マルレーナが行った先程までの儀式が何か、今更ながらにその場にいる者達の理解が及んだのだ。
――『神威召喚』。
それは、かつて世界がまだ生まれたばかりの頃、この光神教の開祖が行ったとされる伝説。
今まさに、自分たちの目の前で行われていたのは『神』を降ろす為のものであり、自分たちはそんな歴史の転換点とも言える場に立ち会ったのだ、と。
「急な話だったけどよくやってくれたね、教皇。おかげで無事、ボクはこの世界に降りてくる事ができた」
「滅相もございません。神託が下りた以上、私にできる事は全てやるだけ。神に仕える者として、それは当然です」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「ですが……その……」
何かを言い淀むマルレーナに、少女が小首を傾げる。
先程までの威容はすでにすっかり鳴りを潜め、誰もがその少女に向けて視線を集中させていた。
灰色の、どちらかと言えば黒に近い長い髪を揺らす少女。
端正な顔立ちは確かに神が肉体を持ったと言える程度に整っており、大人と子供の境界に立つかのような、不完全ながらにも早熟した色香を放つ少女。
髪色よりも白に近い丸い瞳は、善悪の判別もつかないような純粋さを宿しているようにも見えて、同時に全てを見透かすようにも見えた。
そんな少女は、マルレーナに続きを促すように改めて口を開いた。
「何かな?」
「その、あなた様をなんとお呼び致しましょう……?」
本来ならば特に口にする事を憚る必要もない問いかけではあるが、相手は神の使いである。
そもそも〈名〉とは魂を定着させる上で大切なものであり、従魔契約なども踏まえた契約の際にも〈名〉を与える事で存在を、契約を成す事ができる。そういった意味で、神か、或いは天使であるという目の前の少女に名を訊ねるというのは、神に対する不敬であると捉えられてもおかしくはない。
マルレーナが『神威召喚』の魔法陣を描いたのは、神託を通して魔法陣を直接的に脳に焼き付けられ、言われるがままに描いたに過ぎない。
元々、神々は人に対して滅多に神託を下す事もなければ、声を届ける事もない。それでも此度、「魔王アゼルを討つ為、神々が使いを出す為のものである」としか聞かされてはいなかった。
まさか、とは考えていたが、この魔法陣を通して神の使いがやってくる事に対して、半ば半信半疑であったというのも事実であったのだ。
そういった背景もあって訊ねる事に抵抗を覚えていたマルレーナであったが、少女は特に気にした様子もなく、ただきょとんとした表情を浮かべていたかと思えば、ふと小さく笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだったね。名乗っていなかったんだった――」
少女は楽しげに、それでいて愛おしげに、言葉を続けた。
「ボクの名はルーファ、だよ。よろしく」
少女――ルーファは、陶然とした笑みを浮かべながら自らの名を告げつつも、その名を神聖視しているマルレーナ達の姿を見て、思わず苦笑へと切り替えた。
――皮肉な話だ、とルーファは思う。
目の前にいる人々は、まさか『魔王』が神々によって生み出されたとも知らず、その主犯格とでも言うべきか、魔王の生みの親であるとも言える自分に対して、救いを得たとでも言いたげに希望を宿して自分を見ているのだから。
ましてこの名に関して言えば、この名を与えたのは目の前にいる者達が敬愛する神ではなく、敵対し、憎むべき役割をこなす魔王が、アゼルがつけた名であるのだから。
極めつけに――神々が魔王を産み出し、そして今度は魔王を滅ぼす為だけに自分がやってきたのだ。
まるで敵と味方を敢えて生み出し、神々に対して忠誠を誓わせる――謂わばマッチポンプのような状況になっている事に、目の前の人々は気が付いてすらいない。
目の前に現れた
枢機卿団とマルレーナのみがルーファと共に別室へと移り、その先で今回の召喚――詰まるところ魔王アゼルの討滅についての話し合いがなされようとしていた。
「――魔王アゼルを討つのはボクの仕事だよ。だから、別にキミ達にあれをして欲しいとか、これをしてくれとか、頼むつもりはない」
いざ今後の話を、遠征するにあたって何をどう進めていくのか。
そうした話し合いをするべく行われた会談は、しかしルーファのあっさりとした一言に出鼻を挫かれる事となった。
「ど、どういう事でしょう……?」
「言った通りの意味だよ。ボクは別にキミ達に手伝ってもらうつもりもないし、いっそキミ達が何かをしようとしないでくれた方が好都合だ、と。そう言ったんだ」
「な……ッ!」
「“たった一人で戦うつもりなのか”とでも問いかけるつもりなら、肯定を返そう。――逆に聞かせてもらいたいけれど、『本物の勇者』でさえかすり傷を負わせる事のできなかった魔王を、キミ達にどうにかできるのかい?」
取り付く島もなく、ルーファはただただ真実を口にしていた。
事実、魔王はおろか――かの『
よく言えば防戦していたとも言えなくはないが――結果として、魔王アゼルの突然の登場によってあっさりと二人は殺され、たった一人、片腕を犠牲に生かされただけであった。
三人の『本物の勇者』達は、精神的に未熟であり、どこか危うさがあったのはマルレーナとて理解している。しかしながら、その実力は凄まじく、実際にこの世界でも上から数えても両手で事足りる程度の実力者であったのは事実だ。
それさえも、魔王の前では児戯に等しいものであった。ただそれだけの、無情な現実を突き付けられるまでは。
ぐうの音も出ずに俯くマルレーナ達の態度を見て、やり込めたはずのルーファは得意げな笑みを浮かべる事もなく、いっそ苛立たしげに整った顔を僅かに歪ませ、鋭い眼光を宿してマルレーナ達を見つめていた。
「一つだけ、教えてあげるよ。――神々はキミ達人族に、失望している」
「――ッ!?」
「勘違いしないでほしい。魔王をどうにもできない無力さに対して失望している訳じゃないんだ」
「では、一体何故……――」
「――何故、だって?」
枢機卿の一人、オール・ライブラルの問いかけにルーファは射殺すような冷たい視線を向けた。
「魔王という災厄を忘れ、のうのうと日々を暮らし、必要以上の利益を求めて同じ異種族――果ては同じ人族同士で争い続けてきた。そうして、やれ正義だの悪だのと身勝手に騒ぎ続けた結果、こうした事態に対応する力を育もうともしなかったのはキミ達だろう? そんなキミ達が、お世辞にも期待や愛情を抱かれている、と?」
――そんな事は、有り得ない。
「完全に争いを根絶しろ、とは言うつもりはないよ。主義主張の違いや、個々の考えと個性というものを持つ人族に、全てを平等に生きろというのは、同時に個性さえも捨て去ってしまえと言っているようなものなのだからね。――でも、キミ達人族は、災厄の魔王ジヴォーグの時代の惨劇を忘れた。滅亡を前にして一致団結していたはずの『人族同盟』でさえも、今ではただただ形骸化してしまった。しかも、まるで特権階級のような扱いにすらなってしまっているのに、黙認しているよね?」
――その結果が、ボクだよ。
ルーファはそう付け加えて、畳み掛けるように続けた。
「魔族が、魔王が生まれてしまったのは世界の『歪み』が原因だった。それについては、世界を作った神々の失態と言っても過言ではない。だからこそ、『勇者』をキミ達に与えた。キミ達が生き残るべく、『歪み』に立ち向かえるように力を与えた。――そうして、結果が今のこの世界だ。だから、今回はボクが神の使いとしてやって来たんだ」
――何もできない、学ばない、愚かなキミ達の為に。
――どうしようもなく愚かなキミ達に、『託す』という答えを選ぶつもりはないから。
言下にそうした真実を突き付けられ、マルレーナはもちろん、その場にいた誰もが顔を青褪めさせる。
ルーファの言は、厳しすぎるものであった。
しかし同時に、どうしようもない真実でしかない。
そもそも人族が世界を守ろうと、同じく、等しく世界に生きる者であるという自覚と理解があったのなら、『魔王計画』は始まりすらしなかったのだ。魔王アゼルの降臨と、魔王による絶対悪の演出など必要なかったのだから。
それでも神々は動いた。
どうしようもなく冷たくも、どうしようもなく人族とこの世界を愛する神々が、魔王という劇薬を投与する道を選ぶに至らせたのは――他ならぬ人族なのだ。
だからこそ、ルーファは自らが動くという決断を下したとも言える。
魔王アゼルを生み出したのが自分であり、幕引きを己の手でと考えたのも嘘ではないが――神々が天使を投入すると口にした際、ルーファは今しがた告げた言葉が持つ意味が、天使に何を判断させる事になるのかを理解していた。
――きっとこの場に天使がいたら、この場にいる者達は全て天使に殺されていただろうね。
天使とは、あくまでも兵器に過ぎない。
そのため、善悪の判断基準とは“神の思惑に応えるならば善、それ以外は悪”と判断する節すらあった。
もしもルーファではなく、この場に神々が言うような天使がそのまま降臨していたとすれば、神々の思惑に応えようとしない人族すらも粛清対象として攻撃していた可能性もある。
アゼルを止めるにせよ、この手で殺すにせよ――それよりも先に、ルーファは人族に釘を刺さねばならない立場であった。
重い沈黙が流れる。
曲がりなりにも光神教のトップである以上、神の使いとしてやってきたルーファの言葉に臍を噛むような思いを抱くよりも、何より神々に見放されているという現実を無視できるはずもない。
しばしの沈黙は、再び口を開くルーファによって破られた。
「――とまぁ、それぐらいキミ達は追いやられているのだと、自覚するといいよ。まだ神々はそこまでキミ達を見放してしまってはいないからね」
今のはあくまでも警告でしかない、今後の働き如何によっては神々が見放す事も、見直す事も有り得るのだとルーファは言下に含んで小さく肩をすくめながら告げる。
決して状況は芳しくはないものの、しかしそれでもまだ最悪には至っていないのだと察したマルレーナや枢機卿団に安堵の空気が漂う中、ルーファは虚空を見つめながら思いを馳せる。
皮肉な話だ――とルーファは思う。
最初からこうして神々の意思を、天使という役割で自分が伝えてさえいたのなら、アゼルはきっと『魔王』の称号を背負う必要もなかったはずだ。
本来、神々は下界に干渉してはならない。それを行うのは、あくまでも“神々にとっても想定外な事態”が訪れた時のみ、世界を守る為に許される行為なのだ。
ルーファが生み出した『魔王』が暴走している今だからこそ、ようやく神の使いとして自分が世界に関わる事が許され、今になってやっと釘を刺せる。
そういった意味でも、やはり皮肉な話でしかない。
アゼルがいるからこそこの状況は生み出され、皮肉にも消えるはずだった自分がこうして神の使いとして、人と接するようになった。
役目を終えて、あの暗闇の中でただただひっそりと幕を下ろすはずの自分の生涯が、こうして劇的に変わったのはアゼルのおかげだというのに――自分はアゼルを殺さなくてはならないのかもしれないのだから。
「……待っているといいよ、アゼル。ボクがキミを止める」
魔王に対する神々の意思。
新たな、『真なる勇者』として世界へと顕現した、亜神にしてアゼルを生み出した存在――ルーファ。
――――後に語り継がれ、人族の教訓として語り継がれる事になる戦いは、こうして幕を開けようとしていた。
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