2-10 転換点 Ⅱ
「――疾ッ!」
戦いの火蓋を切って落としたのはロザリーであった。
くるくると槍を回しながら上体を低く落として肉薄し、鋭く槍を突き出したロザリーの一撃がイレイアへと襲いかかる。
常人ならばそう簡単には避けられない鋭い一撃は、しかしイレイアを貫くには足りない。軌道を読みきったイレイアがたった半歩分ばかり身体を傾けただけで、槍は虚空を貫いた。
それでも、ロザリーは驚きに目を瞠る事もなければ、悔しげに舌打ちするでもなく、にやりと笑みを浮かべてみせた。避けられる事もまた、ロザリーには――そして共に獲物を狙うシルヴィにとっては、想定の範囲内であったのだ。
ロザリーの挙動の大きな動きに合わせ、死角から飛び出たシルヴィが手に持つ細剣で鋭い刺突を放ち、イレイアへと迫る。
避けられないであろう僅かな時間差を生み出した攻撃。
イレイアへと確かに迫り――対するイレイアはくすりと笑ってみせた。
「残念」
「――ぐっ!」
シルヴィの細剣がイレイアの白い肌に突き立てられるその直前、風切り音を奏でながら振るわれた短剣によって、シルヴィの突き出した細剣はさながら腕ごと身体さえも吹き飛ばすような強烈な一撃によって弾かれた。
刹那、イレイアがシルヴィに向かってぐんと間合いを詰め、手を伸ばす。
喉を狙って伸ばされた手は決して首を締める等という、そんな生易しい攻撃を狙ったものではなかった。伸ばされたイレイアの左手は、人差し指と中指、そして親指を鉤爪の如く曲げたまま、シルヴィの細首へと向かって肉薄していた。
「せああぁぁぁッ!」
喉を毟り取るかのような鋭いイレイアの一撃に反応できたのは、ロザリーだ。強引に足を踏み出し、ぐるりと回りながら槍の石突をイレイアの腕へとぶつける。
いくら魔力による障壁を身に纏っているイレイアと云えど、さすがに細腕に襲いかかった衝撃は殺しきれなかったようだ。僅かに軌道が逸れ、反応が遅れるシルヴィの回避を助ける事に成功した。
即座に後方へと下がる二人を前に、イレイアは相変わらずどこか飄々とした空気を纏ったまま「あらら、惜しかったわね」と肩をすくめて追撃の手を緩め、二人を見つめて微笑を浮かべていた。
「どうする、シルヴィ」
「……どうするも何も……――」
イレイアを睨みつけながら、シルヴィは僅かに言葉を区切った。
これまで『本物の勇者』として、強者の立場に立っていたはずの二人。だが、今回の戦いではその経験が裏目に出ている。
イレイアという圧倒的な強者を前にして顕著になる、自分達と同等か、或いは自分達よりも強者との戦いに対する経験値不足。力押しも通じない上に、加護でさえもイレイアの操る瘴気のような黒い靄のせいで通用しない。
それでも――――
「――攻め続けるしかないでしょうね」
――――経験がないのなら、この場で経験してしまえばいいとシルヴィは思う。
幸いにしてイレイアは”遊んでいる”。
殺すつもりで戦っていないのなら、この戦いの中で自分達が成長する可能性もあるのだ。
そんな推測を裏付けるように、イレイアがくすくすと愉しげに笑う。
「安心していいわよ? そう簡単に殺したりはしないわ」
「……後悔させるわよ」
「ふふっ、後悔、ですって? いいえ、その逆よ。このまま殺してしまう方が、よっぽど後悔してしまいそうだもの」
確かにシルヴィもロザリーも運動能力や反射神経のそれは、およそ人族のものとは思えない程に高い。勇者の加護も、『本物の勇者』と呼ばれるに相応しい強力なものを有しているのは、以前出会った一人の『勇者の末裔』を相手にした際に比べれば一目瞭然だ。
しかしそれでも――イレイアを本気にさせるにも、イレイアを満足させるにも。
シルヴィとロザリーの二人は、あまりにも「足りていない」とイレイアは続けた。
「まだまだ、この程度じゃないでしょう? この程度で終わりなんてつまらないしくだらない。退屈だし憂鬱よ。――さぁ、もっと。もっともっともっとあなた達の力を見せてちょうだい」
イレイアの身体から再び滲み出る、恐怖と絶望を体現するかのような魔力。
何もかもを塗り潰すような強大な魔力を身に纏いながら――イレイアは、にこりと微笑みながら手を翳した。
「――避けなさい、ロザリー!」
先程までとは反対に、今度はシルヴィがロザリーを助ける番であった。
逸早く異変に気が付いたシルヴィの声に反応したロザリーが、言われるがままに横へと飛んだその瞬間――シルヴィとロザリーの二人を呑み込むかのように黒い瘴気が襲いかかり、大地を抉っていく。
その勢いはさらに後方に至るまで一切衰える事さえなく、エルセラバルド帝国軍の軍勢の一部すらも瞬く間に呑み込むと、上空へと舞い上がり――赤い雨を降らせた。
恐慌状態に陥るエルセラバルド軍に気を取られる暇は、シルヴィとロザリーの二人にはなかった。ただの一撃でイレイアの攻撃が終わるはずもなく、二人を追い込むように次々と瘴気と魔力を練り込んだかのような一撃が襲いかかる。
二人が避ける度に、後方に位置するエルセラバルド軍が逃げ惑うその場所へと襲いかかり、まるで見世物にでもするかのように人々を飲み込んでは、わざわざ上空から血の雨を降らせる。
あまりにも残忍な攻撃に、シルヴィとロザリーが歯噛みする。
その表情を目の当たりにするなり、イレイアがこてんと小首を傾げた。
「なぁに、その顔は? 人族の勇者とさえ言われているあなた達が避けるから、あっちの脆い連中が次々に死んでいく。ただそれだけの事でしょう?」
「なんて性格してやがる……!」
「あら、それはおかしいんじゃない? だって――」
イレイアは自らの口元に手を当てながら、弧を描いた。
「――どうせあれがどれだけ死んだって、あなた達はなんとも思っていないでしょう?」
ぴくりと、シルヴィとロザリーはイレイアの言葉に思わず身体を強張らせた。
イレイアには手に取るように分かっていた。
目の前の二人も、アルマと対峙しているノエルもまた、自分に近い感覚の持ち主なのであろう、と。
自分達の世界の中で物事が完結している、とでも言うべきだろうか。
懐に入れるつもりのない有象無象がどうなろうと、決してそこに感傷を抱く事もなければ、感情を寄せる事もない。
それはある意味でイレイアには実に分かり易く――同時に理解し難いものでもあった。
「ねぇ――あなた達、本当に勇者なの?」
勇者という存在は、イレイアにとってみればイレイアとは正反対にいる存在である。他者の為に心を砕き、身体に鞭打ち、それでも強大な敵を前にしてもなお抗い続ける、まさにイレイアにとってはどうにも理解の及ばない存在であるはずであった。
だからこそ、イレイアには目の前の少女らが勇者であるという事実に対し、実に気味の悪いものを感じずにはいられなかった。
まだまだ力が足りないだけならば、まだイレイアはこの様な不快な気分を味わう事はなかった。
挑発してみせ、無力な人族を屠る事で引き出せるであろう、眠れる力を自分に向けてくれる事を、期待していたのだ。
それなのに――なんだ、この体たらくは。
高潔な勇者を貶め、絶望させ、苦しみ喘ぎ、殺してやろうと考えていた。
それでも目の前の少女らからは嫌悪は見えても憎悪も怒りも見えてこないではないか。
魔族の実力者である『
そんなイレイアにとって、興が削がれるというのは、その言葉通りに実に退屈なものであった。
故に、イレイアは決めた。
「――アルマ、もうこいつらは退屈よ。処分していいわ」
刹那、アルマが動く。
未だに膠着状態を生み出していたはずのノエルとアルマの睨み合いは、イレイアの一言によって急変した。
一瞬、僅かに身体がブレたかと思えば、すでにノエルの眼前にはアルマの顔が迫っており――ノエルの首に鋭い手刀が迫る。
「――ッ! 逃げなさい、ノエル!」
シルヴィの叫び声はしかし、あまりにも遅かった。
ノエルの身体は本能的に溢れ出る『勇者の加護』によって護られ、どうにか首と胴が泣き別れるような事態には陥らずに済んだが、ノエルの身体は先程の初撃でのやり取りなど比にならない程に吹き飛ばされ、大地を抉ってなおも突き進んだ。
舞い上がる砂塵の向こうに倒れる、ノエルの姿。
即座にノエルを助けに動こうと腰を落としたシルヴィとロザリーの二人は――しかし、唐突に身体を駆け抜けた悪寒に、思わず動きを止めた。
「……見ぃつけた……」
実に愉しげに――イレイアは笑った。
「そう、そうなのね? あなた達は自分だけの世界に生きているんじゃない。あなた達の世界で生きているのね?」
「……ま、さか……」
「あっはッ! そう、そうなのね! あはははははははッ!」
狂ったように哄笑をあげていたイレイアが突如としてぴたりと動きを止めた。かと思えば、シルヴィとロザリーを見つめて口元に再び弧を描いた。
「あの娘を目の前で殺してあげたら、少しは変わってくれそう、ね?」
「や……めろ……!」
「だぁめ。アルマ、そっちの娘はさっさと殺しなさい」
「やめろおおぉぉぉッ!」
ロザリーの叫びを無視したアルマは、すでにノエルへと肉薄し手刀を構えて振り下ろそうとしている。
身動ぎ一つ取れずにいるノエルはもちろん、シルヴィとロザリーの二人もアルマの攻撃を止めるにはあまりに距離が離れ過ぎている。
玩具を見つけたかのようなイレイアの笑み。
絶望に目を見開くシルヴィとロザリー。
それらの視線を受けながらアルマの腕が振り下ろされた――その瞬間。
アルマの足元から突如として影が立体的に浮かび上がり、その中から出てきた細い手がアルマの手をがっしりと掴み取った。
「……ッ!?」
「――控えなさい。陛下の命令です」
立体的に浮かび上がった影から、妖艶な女性が滲み出るかのように姿を見せる。その姿を見たアルマは僅かに目を見開くと、振り下ろそうとしていた手からすっと力を抜き、腕を引いた。
予想だにしていなかった存在の介入にアルマも先程までの戦いに対する興奮もすっかりと鳴りを潜めており、一つため息を吐いてから改めて問いかける。
「勇者を庇う事が、命令であると?」
「お疑いですか?」
「……いえ、必要ないでしょう。そもそも、あなたがかの御方の名を騙るような真似はしないでしょうし。違いますか――夢魔の巫女、ネフェリア様」
そう、アルマの目の前に突如として姿を現し、倒れたノエルが殺される直前で介入してきたのは、夢魔の巫女――ネフェリア。普段は情報を収集させる”影”を使い、先行してアルマの攻撃を防ぎ、”影”を通じて自らをその場所へと移動させたのだ。
突如として姿を現し、それもノエルですら太刀打ちできなかったアルマの一撃を容易く受け止めてみせたネフェリアの登場に、さらに絶望が募りかけるシルヴィとロザリーであったが、一方でイレイアは恍惚とした表情を浮かべて空を見上げていた。
「あぁっ、愛しい御方……! 偉大なる魔王陛下……!」
シルヴィとロザリーの二人にとって、その言葉は悪夢の象徴でしかなかった。
魔王ですらないイレイアにこうも弄ばれてしまった今となっては、自分達だけで魔王を斃せるなどと思い込める程の自信はすでにない。
ノエルを含めて三人が万全の状態であり、例え三対一という構図であったとしても、それは難しいだろうというのがシルヴィの正直な見解であった。
そんなシルヴィ達の視線を受けながら空に滞空する二人。
髪と瞳、そして黒衣を纏う漆黒の魔王アゼルと、その隣に佇むもう一人の魔族――ヴェクター。
アゼルはイレイアの向こう側に佇むシルヴィとロザリー、そして倒れたノエルを一瞥するなり、まるで興味を失ったかのように淡々と告げた。
「――ヴェクター、露払いだ。蹂躙しろ」
「どれをやりゃいいんだ?」
「くだらない質問だな。俺の目的は『本物の勇者』だけだ。それ以外がどうなろうと知った事ではない」
そもそもアゼルにとってみれば、人族の戦争などどうでも良いのだ。
どちらが勝とうが、どちらに正当性があろうが、それらは須らく屠るべき対象である人族。どちらかに肩入れするつもりなどなかった。
「へぇ……。なら、せいぜい暴れさせてもらおうか――ッ!」
アゼルの命令を耳にするなり、ヴェクターが獰猛な笑みを浮かべた。
直後に本来の姿である黒竜へと変化し、首を仰け反らせながら強大な魔力を口腔内に溜め込んだ。
バチバチと放電してみせるような、黒い魔力の奔流がヴェクターの周囲を暴れまわり――ヴェクターが勢い良く首を押し出すと同時に、黒い雷撃とでも称するようなブレスが放たれた。
イレイアによって弄ばれるように殺されていたエルセラバルド帝国軍へと向かって放たれたそれは、逃げ惑う事すら許さぬとでも言わんばかりに凄まじい速度でエルセラバルドの軍勢へと襲いかかり、一角を薙ぎ払った。
その行方を見つめていたヴェクターが比翼をはばたかせ、もう一度――今度は上空で反転するなり、リッツバード王国軍が籠城する砦へと向かってブレスを放つ。
「――来るぞッ! 結界を張れぇッ!」
突如として矛先を向けられる事となったリッツバード王国側の兵士達も、異常な事態に呆然としているばかりではなかった。
ストラング砦に籠城していた魔法部隊がドーム型の結界を張り、ヴェクターのブレスをどうにか防ごうと試みる。
しかし、相手は魔族の中でも最強の一角にして、生物としての格も高い竜種。結界とブレスの拮抗は僅かなもので、あっさりとブレスが結界を砕いた。リッツバード王国軍にとっての不幸中の幸いは、ヴェクターがそこまで本気ではなかった事か。
結界との僅かな拮抗がヴェクターのブレスの軌道を僅かに逸らした事により、ストラング砦の一角を削り取り吹き飛ばした一撃は、リッツバード王国軍を壊滅するには至らなかった。
しかしヴェクターにとってみれば、今のはただの挨拶代わりに過ぎない。
「面白ェ、あの程度で終わられちゃ退屈だったところだ。殺っちまっていいんだろう、魔王サマ? ――って、おいっ!? ……ったく、聞いちゃいねぇな……」
ヴェクターの問いかけに何かを答えるでもなく、アゼルが空から降下し、大地へと足をつければ、アルマと対峙していたネフェリアがアゼルの斜め後ろへと”影”を通じて移動し、頭を垂れた。
同時にアルマもまた未だに倒れたままのノエルから離れ、イレイアの隣へと移動した。
「よくやってくれた、ネフェリア」
「……よろしかったのですか?」
ネフェリアが問いかけたのは、ノエルを殺させなかった事についてだ。
アゼルによって与えられた命令を遂行する事に否やはないが、しかしネフェリアは未だその真意を聞いてはいなかった。気にするのも無理はない。
そんなネフェリアの質問に表情を変える事も答える事もなく、どうにか意識を取り戻したものの、身体に受けたダメージからは復活できないままでいるノエルを見つめながら、アゼルは口を開いた。
「俺の見立てでは、アレが一番勇者に相応しい」
「それは一体……?」
「後で説明する。それよりも今は、やるべき事をやろう」
「ハッ」
魔国アンラ・マンユにいる時と、今のアゼルが放つ雰囲気は全く違う。
どこか気安さすら感じさせるアゼルの空気は今、思わず平伏してしまいたくなるような圧倒的な強者の気配を漂わせ、一切の迷いすら見せようとはしない。
心酔するネフェリアはもちろん、その場にいる誰もが、アゼルの一挙手一投足から目を離す事すらできずに息を呑み、言葉を、動きを待つかのような奇妙な静寂が生まれている。
――これこそが、王者の風格なのだろう、と。
深く腰を折ってみせたネフェリアは、改めて実感していた。
やがてアゼルが、未だ恍惚とした表情のまま自らを見つめるイレイアへと視線を向けた。
「『
「……はい」
陶然と、まるで恋の熱に浮かされているような様子でイレイアが返事をしてみせる。その姿にネフェリアがぴくりと柳眉を上げたが、アゼルは気にする事さえなく、ただ淡々と続けた。
「――ここから先は、俺が征く道だ。邪魔をするな」
「……っ! わ、分かりましたわ」
傲慢にして不遜、享楽的で何者にも縛られる事のないイレイアが、アゼルの言葉にだけは蕩けるような笑みを浮かべながら唯々諾々と従ってみせる。その光景に思わずアルマも驚きに僅かに目を見開いたが、それでも主がそれで良いと判断したのならば否やはない。
後方に下がったイレイアとアルマには見向きもせず、アゼルは右手に赤黒の大鎌を手に取り、シルヴィとロザリーを見つめながら――宣告した。
――「お前達には、生贄になってもらう」と。
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