2-4 波乱

 レアルノ王国南部からじわじわと広がり始めた、干からびて放置された死体や、人を襲い、歩く死体の目撃情報なども含めた変死事件は、時には命からがらに逃げた者の口からは悍ましい光景を目にした事をさながら武勇伝のように語られ、時には行商人の土産話として多くの商会へと広がりつつあった。


 人族の脳裏に過ぎったのは、かつてジヴォーグ在りし時代に語られた一人の魔族。

 イレイアの部下にして側近、アルマの存在であった。


 先日起こった、アゼルの『国崩し』。

 その際、金毛の牛魔であるバロムの姿が見えたことから、かつて名を馳せた恐怖の象徴とも言える魔族も復活したのではないか、という噂が流れており、その中にはアルマの名も連なっていたのだ。


 もっとも、アルマはイレイアの側近であり、かつての大戦ではさほど暴れ回るような真似をした訳ではない。

 ただ、イレイアが求める血を手に入れるべく、強者や美姫を連れ去る際に多くの下級眷属――低位吸血鬼を生み出し、行き掛けの駄賃とでも言わんばかりに混乱を生み出していたために恐れられていた、という過去があったために名が知られているのである。


 そんなアルマの姿が突如として見えなくなり、当時の勇者に箔をつけるべく討伐したのだと嘘の発表がされたという経緯があるのだが、今となってはその真実を知る者はいなかった。


 そう、人族は知らない。

 アルマはあくまでもイレイアの側近であり、真の強者とは決して言えない事を。


 故に――下級眷属を寄せ付けず、勢いをそのままに二人の前へとやってくるなり剣を構えた青年もまた、そんな真実を知らず、アルマだけを警戒するかのような態度を見せていた。


「――その美貌、かつての絵画も存外誇張であったという訳ではないらしいな。貴様が吸血鬼の真祖アルマだな」


「……はて。確かに私は吸血鬼であり、アルマという名でもあります。が、真祖と呼ばれるような御方と私とでは、比べるのも烏滸がましいというものですが」


「フン、言い訳をして見逃してもらおうとでも考えているのか? 滑稽な――と笑ってやりたいところだが、それも無理はない。何せ俺は勇者の一人だからな、貴様ら吸血鬼の魅了や精神干渉の魔法は通用せん」


「そうですか、良かったですね」


 実際、本物の真祖であるイレイア様でしたら、私の隣でお腹を抱えて爆笑しておりますよ――とは、さすがにアルマも言えなかった。

 あまりにも明後日な方向を、さも見破っているかのように得意気に語ってみせる青年という展開を前に涙を流す程に大笑いしていたイレイアは、しばし笑い続けた後で涙を拭いながら青年を指差しつつ、アルマへと視線を向けた。


「はー、おっかしー……。ねぇ、アルマ。あれって勇者なの?」


「確かに加護はあるようですが……、多少なりとも戦いに身を置いてさえいれば相手にならない程度、力も知恵も足りない下級眷属を屠った程度で、ただの羽虫如きが勇者を語りますか。それはそれは……随分と勇者の質というものは下がったようですね」


 勇者と名乗る青年とは対照的なまでの温度差のある対応をしてみせた、イレイアとアルマ。二人の態度が余程癪に障ったのか、青年は額に青筋を立てて剣の切っ先をアルマへと向けた。


 ――しかし、次の瞬間には甲高い破砕音と共に青年の視界の隅には加護特有の金色の光の残滓が弾けており、青年の視界はぐるぐると回っていた。


「――え……?」


「あれ? なにこれ? これが加護なの? こんなのただの魔力障壁にすら及ばないじゃない」


 どさりと倒れ込んだ視界の向こうでは、が赤い血を噴水のように吹き上げながら崩れ、その真横で笑うイレイアの姿があった。

 頬についた返り血をぺろりと舐めて、イレイアが青年のへと視線を向けたところで、青年の意識は完全に闇の中へと閉ざされてしまった。


「はぁ。勇者なんて言うから面白いのかと思ったのに。それにこんな不味い血なんて、拍子抜けもいいとこだわ。この程度なの?」


「神の加護も血と共に薄れてしまっているのでしょう。かつての勇者の血は浴びただけでも身を焼き焦がす程のものでした」


「ふーん。加護が血と共に薄れて、ねぇ。なんだか、それってな気がするけど、ね」


「神が、人族を見放す……? そのような事があり得るのですか?」


 奇しくも真実を突いて見せるようなイレイアの言葉であったが、アルマには到底そのような事が起こるとは思えなかった。

 何せ勇者は神の加護を受け、神の敵として見られている魔族に対して特化した能力を持つ存在だ。その時点で、魔族を敵視しているとすら思われる神々が、魔族と敵対する関係にある人族を見放すような真似はするはずがないだろう、と。


「ふふふっ。いくら私でも、神が何を考えているかなんて分からないわ。けれど、神の加護がこんなに簡単に破れちゃうんじゃ、あながち間違っていないとは思わない?」


「……私には、分かりません」


「もうっ、ただの世間話みたいなものなんだから、適当に答えてくれればいいのにっ。――でもね、私はこの予感は正しいものだと思うの。だからこの大陸にやって来たっていうのもあるのよ」


 イレイアにとっても、神の加護を受けている本物の勇者が相手ではさすがに分が悪い。だが、すでに頭部を失って崩れ落ちた、名も知らぬ勇者の残り滓とでも言うような青年を屠る程度ならば、赤子の手を捻るも同義であった。


 アゼルの戦いの映像をアラバドより譲り受ける前より、イレイアは使い魔を通してアゼルとアレンの間で起こった戦いを目の当たりにしていた。


 その際に見た加護の姿に、強烈な違和感を感じていたのだ。


 ――なんだ、あれは。

 イレイアの脳裏に浮かんだのは、驚愕ではなく疑念だ。


 確かにバロムには有効ではあったようだが、先程アルマが口にした通り、かつての勇者の加護と言えば、触れるだけでその身に強酸を浴びせられるかのように焼かれ、消滅は免れられなかったはずであった。

 まして、バロムは牛魔であり、イレイアは吸血鬼。

 肉弾戦に特化し、魔力の扱いを苦手とするバロムでは手を焼く加護であっても、魔法の扱いを得意とし、血の一滴でさえ強力な呪術の媒介にすら使用できてしまう吸血鬼の魔力障壁とでは、雲泥の差がある。


 故に、イレイアは手に魔力を纏って一閃してみせただけ。

 ただそれだけの小手調べ程度の一撃でさえ、加護を持つと称する勇者の首は胴体から離れてしまった。


「――こんなの、つまらないわ」


 ぽつりと、イレイアが呟いた。


「イレイア様?」


「あの御方に、アゼル様にこの大陸を掌握して捧げるつもりだったけれど――気が変わったわ、アルマ。こんなつまらないもの、生かしておく道理はないわ」


 イレイアの纏う空気は弛緩したものとは打って変わって、冷たい怒りを孕んだものへと切り替わった。瞳は蔑むかのような冷たい光を宿し、表情が抜け落ちてしまったかのようだ。

 主のそんな姿を見て、アルマは即座にその場に跪いた。


「アルマ。血の華を咲かせ、川を赤く染め、恐怖と憎悪の赤黒で大地を塗り潰しなさい。こんな大陸に価値なんてない。あの御方に捧げるに値しないわ」


「仰せのままに」


「――出てきなさい、私の愚かで愛しい傀儡達」


 アルマの返事を耳にしたイレイアの一言と共に、イレイアの影が大地を黒く塗り潰した。すると、イレイアの影によって塗り潰された大地から、次々に見目麗しく若い男女が姿を現し、跪いた。


 イレイアとアルマがこの大陸で調達したのは、下級眷属。

 さながら幽鬼を思わせるような、生ける死体達とでも言うような、力も知恵もなくただただ餓えた獣のように人を喰らう事しか考えられない者達だ。


 そして今、イレイアの影から姿を見せた数十に及ぶ男女の全ては、中級眷属。

 人並みの知恵と思考能力を持ち、イレイアが称した通りに愚直なまでにイレイアの命令を遂行する事だけを至上の喜びとする者らであった。


 上級眷属の中でも最上位に位置する筆頭侍従のアルマに比べれば、まだまだ実力や美貌は劣る。しかし、もしもここに人族がいたならば。そして中級眷属と呼ばれた彼らの実力を理解してしまったのならば――あまりの絶望に意識を失っていた事だろう。


 何せ、吸血魔族の中級眷属は、一人一人が魔族の中でも上位から数えた方が早い程度の実力を持っているのだから。


「行きなさい。ゴミは要らないわ。全て喰らい尽くしてしまいなさい」


 じわじわと毒が蝕むかのように攻めるであろうと思われていた、『陽を跨ぐ者デイウォーカー』イレイア・ヴラド・アーゼアス。

 彼女を知る『不死王ノーライフ・キング』ギ・ジグがもしもこの場にいたら、再びこう表していただろう。


 ――「だかラ言っタのだ。彼奴はデ狂信的、そしテダ」と。


 興味を失ってしまえば、もはやそこに価値など認めない。価値なき物は捨て、新たなを求めるなど、イレイアを知るギ・ジグから見れば、酷く彼女らしい、彼女が持つ道理に則った行動基準であるとさえ言えた。









 ◆








「――ッ!」


 リッツバード王国、客室。

 椅子に座ったままティーカップに注がれた紅茶を桜色の唇へと近づけていた『聖女』エーティアは、突如として襲いかかった言い知れぬ怖気に身体を震わせ、目を大きく見開いた。

 さながら身一つで吹雪く山の中へと放り出されたような錯覚を覚えてしまう程の寒気に襲われ、カップを乱暴にソーサーの上へと置いたエーティアが、自らの身体を掻き抱いた。


「いかがなさいましたか、エーティア様!?」


 異変に気が付いたルミナが慌ててエーティアへと駆け寄り、声をかける。


 毒は当然ながらに仕込まれてなどいない。

 紅茶はルミナ自身が用意したものであり、ティーカップもまたルミナが持参してきたもの。当然、毒味も自らの身で済ませてあるのだ。

 毒物を盛られた可能性を頭の隅に追いやりつつ、どこかまだ冷静だったルミナはエーティアの様子から凍えているように思えて、即座に身体を抱きしめた。


「しっかり! しっかりなさってください、エーティア様……!」


「……る、みな……。おね、がい、もう少し、そうしていて……」


 唇は青白く、顔からは血の気が失せてしまったかのように震えるエーティアを更に強く抱き締めながら、ルミナは神へと救いを求めるかのように小さく祈りを捧げる。


「主よ、貴方様の愛娘を、どうか……!」


 震えるエーティアを前に自らの無力を噛み締めつつ、ルミナは何度も何度も、小さくも懇願し、縋るように続けていた。


 ――――どれだけそうしていただろうか。


 お互いにただただ耐えるだけの時間が過ぎていき、互いの熱を実感できる程度にまで落ち着いてきた頃、ようやくエーティアが僅かに身動ぎをした。


「……ルミナ。やっと、少し落ち着いたわ……」


「エーティア様……!」


「ふふふ、ありがと。ルミナがいてくれなかったら、凍えてしまいそうだったわ」 

 気丈に振る舞うエーティアの顔色は、未だにお世辞にも良くなったとは言い難い。それでも取り繕い、弱々しい笑みを浮かべられる程度には、確かに落ち着きを取り戻していると言えた。ゆっくりとルミナも身体を離していく。


「今、温かい紅茶を淹れ直します。少々お待ちを」


「えぇ、ありがとう」


 お世辞にも室内の温度は寒いとは言えないが、確かに先程まで、エーティアの身体は芯から冷え切っていたとルミナには感じられた。エーティアも先程に比べれば幾分かは落ち着いているが、今もまだ寒気を感じているのか、身を強張らせながら、しかし何かを思案するかのように虚空を見つめている。


 紅茶を注ぎ直す間、互いに言葉を交わさなかったのは、溢れ出てきそうな言葉を口から垂れ流すよりも、むしろ思考を整理する為のものであった。


 やがてルミナが新たに注いだ紅茶がエーティアに手渡され、エーティアも身体の芯に残る凍える感覚を追い出すかのように、紅茶を口へと運んだ。


 再びの沈黙。

 エーティアはその間にようやく何から話せば良いものかを判断したようで、再び紅茶を一口ばかり飲んでから、ゆっくりと口を開いた。


「ルミナ。今私が感じ取ったものは、死と絶望だったわ」


「それは、一体……?」


 問いかけるルミナに対し、エーティアはゆっくりと頭を振った。


「判然とはしない――けれど、何かとてつもなく危険なものが、動き出そうとしているわ」


「まさか、魔王が……?」


「いいえ、魔王ではないと思うの。私もあの日、あの空に映し出された魔王の姿を確かに見たけれど、あの魔王には――そう、動物的な本能とでも言うような恐怖を抱く事はなかったわ」


「では、魔王より危険な存在である、と……?」


 再び、エーティアは頭を振る。


「違うわ。確かに魔王は、目的の為に手段を選ばないような存在に思えた。けれど、あの魔王は無意味な殺戮には一切興味を抱いていないでしょう。でも、私が感じたものは、もっとずっと危険な存在よ。目的もなく、ただただ私欲の為だけに死を振り撒いてすら見せるような、そんな何かだったわ……」


 エーティア自身、まだまだ抽象的過ぎる感覚であるのは事実ではあったが、確信があった。

 エーティアはアゼルに対し、いっそ畏敬の念すら抱く事さえあった。

 目的の為だけに邁進し、周囲を顧みない。誰かに媚びたり協力を促すぐらいならば、自らの足で道なき道を踏破し、その先を掴んでやろうというような、そんな強さに惹かれさえしたのだ。故に、アゼルとは違った存在であるだろう、と。


 しかし、今しがた自分を襲ったものは、確かにアゼルに対して抱いた絶対的な強者の気配には酷似こそしていたが、もっと本質的に恐ろしいものであったと、エーティアは確信している。


「このままでは、ここも危険かもしれない……」


「でしたら、その旨を国王陛下に進言してみては……」


「いいえ、それはできないわ。今リッツバード王国は、エルセラバルド帝国が出す答えを待っているわ。私達が――アールスハイドに縁ある者がこれ以上の口を挟む事も、惑わすような情報を与える事も好ましくはないわ」


 エーティアが所属する光神教が積極的に動いてでも人族間の戦争を止めようとしているのに対し、リッツバード王国国王であるヘルゲンは、魔王が本物であるという話を聞いたからこそ賛同してくれている。


 しかしそれも、リッツバード王国と対立しているエルセラバルド帝国もまた戦争から手を引くという提案を呑めばこそだ。


 現在エルセラバルド帝国に向かっているアールスハイド神聖国の一人、オール・ライブラルが成果を持ち帰らない限り、ヘルゲンの賛同とて白紙に戻りかねないのは、エーティアも理解しており、吉報を待っている状況だ。


 そんな中、魔王以外の脅威の存在があるなどと吹聴しようものならば、「よもや光神教は、魔王をダシに各国を掌握してしまおうと画策しているのではないか」と要らぬ勘繰りや誤解を招きかねない。


 確かにヘルゲンは思慮深く、エーティアの言葉に真摯に耳を傾けてこそくれるであろう。が、リッツバード王国とて一枚岩とは言えない。国を乗っ取られるなどとでっち上げられた理由を大義名分に、王位を簒奪しようとする者まで現れてしまいかねないのだ。


 戦争を止める為に動いているはずが新たな火種を生み出してしまっては、本末転倒も甚だしい。


 ――せめてエルセラバルドが、素直に応じてさえくれれば。


 そんなエーティアの願いは、ちょうど部屋へとやってきたリッツバード王国の侍女によって齎された情報に、さも嘲笑うかのようにあっさりと破られた。


「アールスハイド神聖国、『聖女』エーティア様。並びに、そのお付きであるルミナ様。陛下がお呼びでございます」


「要件は?」


「――エルセラバルド帝国が、我が国リッツバード王国に向けて進軍を開始したとの事です」


「な……ッ!」


「……ッ、分かりました。すぐに準備を済ませます」


 最悪の想定が、ここにきて現実味を帯びた。

 短く返答したエーティアの言葉に侍女が一度部屋の扉を閉めて廊下で待機する姿を見送ってから、エーティアはルミナに向かって振り返った。


「エーティア様……」


「……ルミナ、本国に連絡を。もはやなりふりを構っている場合ではなくなってしまいました。――この戦い、リッツバード王国に助力し、早急に終わらせます」


「神聖騎士団の派遣を要請する、と……?」


 アールスハイド神聖国、最強にして最大の騎士団。

 エーティアには及ばずとも神の加護を受けたとされる、神の尖兵――それが神聖騎士団である。


 ルミナがその名を挙げたように、確かにその者達が助力しようものなら大きな戦力になるのは間違いない。しかしエーティアは、ルミナに対して否定の意を口にしつつ頭を振った。


「『勇者の末裔』ではなく、『』に要請を。ただの戦争ならばいざ知らず、先程感じた予感はもはや疑いようがありません。の力を借りて早急に戦いを終わらせ、魔族の襲撃に備えます」


「――ッ、宜しいのですか……?」


「背に腹は代えられません。私はこのままヘンゲル国王陛下にその旨を伝えてまいります」


 

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