1-7 逢魔が刻 Ⅱ
言葉を失う者達を前に、未だに腑に落ちない様子を見せるサリュの頭を軽く撫でながら宥めると、ようやく前へと一歩歩み出た。その姿は先程と同じく力強さも何も感じられない、気負いすらない一歩だ。
だが、誰もがアゼルという存在に心を奪われるかのように、自然と視線が集まる。
「サリュ、始めよう」
不満げに頬を膨らませていたサリュが、一転して花開くように表情を綻ばせた。
つい先日アゼルを襲った黒い霧――『歪み』の瘴気に溶けていくかのように身体は徐々に輪郭を失い、アゼルの手に集まっていく。
禍々しさを感じさせるサリュの正体。ゾルディアらといった古参の魔族が先程、思わず懐かしさを覚えて動きを止めた理由――先代魔王ジヴォーグに似通う気配が、先程の少女の姿よりも一層強く放たれる。
黒い瘴気は、やがてアゼルの手の中で武器の形となった。
サリュの「命を刈り取る」という淡い想いとアゼルの死神に対するイメージを体現して生み出された、凶相を武器という形に押し込めたような両刃の大鎌。
アゼルの頭にある角と同じような赤黒い刃。白金色の聖なる力とは対照的な闇色と赫の二色は、この空を覆っていた赫空のそれに似ていた。
柄と刃の繋目には水牛の頭を思わせるような禍々しい髑髏と角があしらわれ、開いた口からはしかし水牛のそれとは全く異なる鋭い歯と牙が覗いており、眼窩に宿した揺れるような淡い赤い光が不吉を象徴していた。
一方、それを扱うアゼルからは相も変わらず強さは見えなかった。
凪いだ海のような静けさを持ったアゼルと、荒々しく全てを刈り取るかのように自らの存在を見せつけ、魅せつけるサリュとではあまりにも存在が乖離している。
よもや、あの大鎌だけが新たな魔王の力なのかと、サリュの鮮烈な力を前に、魔族の多くはそんな印象を抱かずにはいられない。
しかし、アゼルを知る者は違った。
アラバドは仮面の下の瞳を愉しげに歪ませ、ネフェリアは微笑みすら湛えるように佇み、レナンもエニスも、ベルファータさえも「しょうがない御仁だ」とでも言いたげに困った様子で笑みを浮かべている。
侮りと嘲りの視線が再びアゼルへと向けられる中での、アゼルを知る者達の反応は実に奇妙と言えるものであり、そういった反応をちらりと確認したゾルディアは「何を見せてくれるのやら」とらしくない心の昂ぶりを感じた。
くるくると大鎌を回していたアゼルがピタリと動きを止めた――刹那、ヴェクターへと肉薄しながらぐるりと身体を横に回転させ、遠心力を乗せて大鎌を振るった。
柄を上半身で固定し、黒い尾を残して振るわれた大鎌の鋭い一撃に、ヴェクターが後方へと跳んで回避しつつ、小さく笑った。
すかさず反撃に前へと躍り出ようと腰を落としたヴェクターへ、アゼルが大鎌の刃を地面へと突き立て、足を軸に力の方向を強引に切り替える。突如として方向を転換した一撃が再びヴェクターへと襲いかかった。
しかし、ヴェクターとて戦いの中に身を置く者。
足を踏み留め、鼻先の所でそれを回避に成功させつつ、外れな動きを前に、ヴェクターは大鎌という武器の危険性を大きく上方修正させられた気分であった。
本来、大鎌という武器は戦いにはあまり向いていない。
長大な上に湾曲した刃は相応の重量を伴い、いちいち取り回しに隙が生まれ易い上に、突くという攻撃に向かない形状をしている。その為、斬り払うように振り回すか、引く事で刈り取るような動きが必要とされてしまうからだ。
しかしアゼルの場合は異なる。
魔王としての膂力があれば片手で十分に反動を御せるのだ。
間合いを詰めようにも、引きの一手がある大鎌では容易に懐に飛び込むような真似さえできない。
「チィッ、厄介な相手だぜ……ッ!」
悪態をつきながらも今度はヴェクターが先手を取る。
強靭な肉体を持ち、膨大な魔力を宿す〈黒竜〉は半人半竜の姿であっても隔絶した運動能力を有している。
一瞬で間合いを詰め、アゼルの大鎌が反応できない位置取りを瞬時に把握したヴェクターの詰め方は、戦いを見守るゾルディアをもってすら感嘆せしめた動きであった。
裂帛の気合を上げて振るわれた拳がアゼルの身体を捉える――その瞬間、アゼルはふっと身体を後方に下げて避けてみせると、ぐるりと身体を回しながら蹴りを放ってヴェクターの身体を吹き飛ばした。
突然の反撃と、華奢とも言える身体から放たれた蹴りだと言うのに軋むような痛みを訴える中、それでも顔をあげたヴェクターの瞳に、いつの間にやら間合いを詰めて大鎌を振り被っていたアゼルの姿が映り込んだ。
「避けなきゃ死ぬぞ」
静かに宣告されて、ヴェクターは咄嗟に横に飛んで回避した。
大地へと振り下ろされた大鎌は刃を地面へと突き立ててもなおその力は死にきらず、周囲の地面に幾重もの亀裂を生み出した。
「クソッタレがぁッ!」
手加減するかのような宣告をしてみせたアゼルの態度に、ヴェクターが再び肉薄して拳を振るう。
連続で振るわれる攻撃は大鎌の柄によっていなされ、避けられ、時に受け止められ、少しでも隙を見せればアゼルの強烈な蹴りが襲いかかり、大鎌が命を刈り取ろうと狙ってくる。
緊張感に包まれる中で応酬を繰り広げながらも、ヴェクターはここまでの戦いでアゼルに対する印象をがらりと変えていた。
踊るような戦い方をしながらも、〈黒竜〉の身体を以ってすら重いと思える体術をも駆使してみせる。ぎこちなく、大振りであった大鎌の攻撃もなくなり、洗練されているような気さえしてならなかった。
次にどんな手を繰り出してくるのか。その時はどうしてやろうかと、考えながら自分の攻撃を全て読んで、対処してみせるといったアゼルの姿。
それはまるで、水が沁み込むように戦い方を吸収されているような気さえしてならない。
ヴェクターのその考えは、実に正しい。
アゼルはサリュという名の大鎌を武器として扱う上で、ヴェクターというこれ以上ない練習相手を得ていると言えた。
亜神によって創られた肉体が持つポテンシャルは非常に高く、戦いの経験さえろくにないアゼルでも十二分に見て対処できる。それに加えて、訓練には強者との戦いこそが最上であり、容赦なく攻撃を仕掛けられるという意味でもネフェリアらを相手にできるような代物ではないのだ。
傍から見れば、ヴェクターが優勢にも見える戦いが続く。
防戦一方のアゼルには手も足も出ないようにすら見える攻防は、突然後方へと下がったヴェクターによって中断された。
アゼルの纏った空気が、突如として変わったのだ。
「いい練習になったよ、ヴェクター。そろそろお互い、本気でいこう」
「なんだと……――ッ!?」
ヴェクターの言葉は、圧倒的な力が暴威となってアゼルの身より溢れ出した力の奔流によって遮られた。
サリュの放つ瘴気と混ざり合うように放たれたアゼルの力は、もはや魔力を纏っているような一般的な魔族とは異質な代物だ。
先程まで野次を飛ばし、アゼルを殺すようなショーを期待していた者達の誰もが、自分達が間違っていたのだと今更ながらに悟る。一瞥されただけで気を失いかねない程の重圧に、増長しつつあった魔族の心が折れる――否、まるで叩き潰されたかのように跡形もなく消し飛ばされた。
それはゾルディアもまた同じだ。
「……よもや、先程までは本気ではないと思っていたが……」
誰よりも先代魔王に陶酔し敬愛していた、かつての魔王の右腕。
そんなゾルディアを以ってすら、今のアゼルには恐怖を覚え、膝を折ってしまいたくなった。ただ恐怖に怯えて、ではない。アゼルこそが真なる魔王として相応しいと、心の底より認めた何よりの証である。
「ふふふ。どうやら陛下は、ヴェクターを認めたようです」
「認めた、だと?」
「はい。陛下は最初から、あの大鎌だけで相手するつもりでしたから。それがああして魔力を放出したという事は、敬意を払う意思の表れです。ゾルディア様、どうぞ刮目して御覧ください。あれこそが我ら魔族の前に降り立った、真の魔王陛下です」
陶酔し、頬を紅潮させながら語るネフェリアの姿は、奇しくも彼女の祖母に重なり――否、それ以上だとゾルディアは嘆息した。
初代魔王ジヴォーグに付き従いながらも常に傍らで侍っていた夢魔族と云えど、ここまで魔王に対して強く入れ込むような姿を見た事もなかった。
当時のジヴォーグは圧倒的な存在であると同時に、どこか他者を受け入れるつもりなどなく、ただただ憎悪と憤怒にのみ身をやつしているかのような存在であったのだ。
それ故に、もしもアゼルではなくジヴォーグであったなら、このような催しはせずに全てを薙ぎ払っていただろうとも思う。
新たなる魔王、アゼル。
実力も申し分ない新たな魔王に、ゾルディアは興味を抱き、その他に並ぶゾルディアらと同格とまではいかずとも近い実力の持ち主達もまた、アゼルという存在を心に刻みつけていた。
「どうした、ヴェクター。何をそんなに驚いている?」
アゼルは身の丈以上もありそうな柄を持つ大鎌を持ったまま、ゆっくりとヴェクターへと歩み寄りながら声をかけた。
決して嘲笑するでもなく、侮るでもなく語りかけるようなアゼルの口調が、かえってヴェクターの心を逆撫でする。しかし同時に、逆撫でされて今更ながらにヴェクターは我を取り戻した。
もしも今の一瞬で襲いかかられていたら――と思わずにはいられず、思わず悪態をついた。
「……チィッ! 礼は言わねぇぞ」
「なら、始めよう」
くすくすと、大鎌が笑うように赤黒い瘴気を揺らす。
侮られているのかと激昂しかけたヴェクターの視界は――アゼルが刹那に振りかぶる姿で埋め尽くされた。
「――ッ!」
咄嗟に後方へと飛んだヴェクターの首筋から血が流れ落ちる。
先程までとは打って変わったかのような鋭さを伴った一撃は、完全に避けきったはずにも関わらずに、肉厚な大鎌の外側へと向けられた刃によって薄皮を刈っていた。
さらにアゼルは追い打ちの手を緩めるつもりはないのか、宙へと浮いたヴェクターに手を翳す。
「おいおいおい……ッ! そりゃシャレにならねぇぞ――ッ!」
集まる魔力の塊にヴェクターの顔が青褪める。
魔族の中でも最上位に近い硬い身体と魔力耐性を持つ〈黒竜〉の肉体を以ってしても、翳されたアゼルの手から今にも放たれようとしている魔力弾には濃厚な死の気配しか見えてこない。
しかし、ヴェクターとて〈黒竜〉の次代の長を担う者。
このまま負けるなど、ましてや逃げてしまうなど彼が持つ矜持が許さなかった。
大きく息を吸う動作をしながら全身から魔力を集中させる。
竜の一族だけが使える、【
視界の向こうにアゼルの姿を見つめ、ヴェクターは――笑った。
準備が整うまでを待っていたかのような余裕すら感じさせたアゼルに僅かな苛立ちを感じつつも、心のどこかでは強者との戦いに昂揚しているのだ。
だからこそ、一切の遠慮もなく、先程までの動揺さえも消え、ただただ「後悔しやがれ」と負けん気の強い好戦的な性格を表すように、先手を放ってみせる。
竜が使う【竜の息吹】には、種族の特性が強く出る。
火竜ならば炎が、氷竜ならば吹雪といったように。〈黒竜〉は全てを破壊し、呑み込むような圧倒的な力を持った黒炎の奔流と化す。
上空から襲いかかる黒炎は、例えアゼルが無事であったとしても周囲にその魔手を伸ばしかねない。
周囲の魔族でさえ慌てて逃げようとする者もいる中、アゼルは口角をつり上げ、自らの手に集めていた魔力弾を放ってそれを迎撃した。
衝突――拮抗し合う二つの暴力が、激しく大気を揺らして互いを喰らい合う。
ヴェクターにとってみれば、一点に集中させた【竜の息吹】がたった一発の魔力弾に抑え込まれるなど、タチの悪い悪夢にしか思えなかった。僅かにでも力を抜けば、即座に自分の【竜の息吹】を貫いて襲いかかるであろうアゼルの魔力弾を相手に、さらに力を込めて威力を増す。
膨れ上がった一撃が大きな波のように押し寄せた。
均衡が崩れ、ようやくアゼルの魔力弾を相殺する事に成功した事を感じ取ったヴェクターの視界が自らの放った【竜の息吹】が晴れた先へと向けられ――驚愕に目を剥いた。
――――その先には、アゼルの姿がなかったのだ。
「――がッ!」
脇腹に走る強烈な痛み。
咄嗟に魔力を集中させ、身体を硬化させた時にはすでに刃がヴェクターの腹には突き刺さっており、ヴェクターの身体は凄まじい速度で斜めに吹き飛ばされた。
砂塵を巻き上げながら吹き飛ぶヴェクターを他所に、アゼルはゆっくりと着地すると、大鎌についたヴェクターの血を振るって落とした。
魔力弾を放った時から、すでにアゼルはヴェクターの後方へと飛んでいたのだ。
それに気付かずに正面から迎え撃ったのは悪手。
しかし、もしもヴェクターが避けていようものなら、ヴェクターの後方へと飛んでいたアゼルが自分の魔力弾を受け止め、そのまま追撃をするつもりだった。
どちらにせよ、ヴェクターはアゼルの手の内で踊らされていたのだ。
それでも、正面から相殺してみせただけでも夢魔族らに比べれば十分過ぎるだけの力を示していると評価できた。
ヴェクターが吹き飛んだ先を見つめながら、アゼルが大鎌を肩に担ぐ。
「ヴェクター、負けを認めるならそう言え。今の一撃程度じゃ、意識を失う程ではないだろう?」
静かに告げられた声ではあったものの、その宣告は遠くで倒れているヴェクターの耳朶に触れた。
横腹に受けた傷は強靭な〈黒竜〉の身体のおかげですでに半ば程まで傷口が閉じつつあるが、それでも失われた血は意識を混濁させるのに十分であった。
誰もが、ヴェクターが負けを認めるのも仕方ないと納得する。
アゼルの圧倒的な力の片鱗をまざまざと見せつけられ、魅せられてしまった彼らには、もはやアゼルが真なる魔王であるという一点については僅かな疑いもない。〈黒竜〉の強靭な皮膚を貫く大鎌の禍々しい刃、たった一発の魔力弾で【竜の息吹】を相殺すらしてみせる圧倒的な魔力。
そのどれもが、ただの魔族とは隔絶しているのだ。
「……ハッ、ハハハッ、ここまでボロクソにやられたまんま、終われるかってんだ……ッ!」
若き〈黒竜〉の、身の丈に合わない虚勢。
ここぞとばかりに失笑を浮かべて嘲るように鼻を鳴らした一人の魔族は、アゼルからの鋭い殺気がぶつけられて一瞬で意識を闇に堕とした。
今回、こうして戦う形とはなったものの、アゼルはヴェクターを嫌ってはいない。それどころか、いっそ好ましい性格をしているため、気に入ったと表現してもいいだろう。
戦士としてのヴェクターは清々しいまでに真っ直ぐと、殺意ではなく戦意を、殺気ではなく闘気を剥き出しにしてアゼルへと挑むという選択をしてみせている。そんな彼を愚弄するような輩は、アゼルにとっても不快な存在でしかなかった。
気を取り直すかのように再び大鎌をくるくると回し、アゼルは口角をつり上げた。
「今度はこちらからいくぞ。――死ぬなよ」
先程から暴威となって荒れ狂う魔力が、大鎌へと収束していく。
ギチギチと音を立てるかのように、アゼルの魔力を大鎌が喰らっているのか、水牛を思わせる装飾の眼窩に光る瞳が揺れ、愉悦に歪んだようにすら見えた。
「サリュ、約束通り本気を撃つ。待たせた」
ぽつりと呟くような一言に、大鎌が赤黒い光を放って呼応した。
腰を落としたアゼルは、力を込めるかのように大鎌を背まで振りかぶり――振るう。
怨嗟の咆哮にすら聴こえるような禍々しい音を放ちながら、赤黒い魔力の塊が刃となり――黒い斬撃がヴェクターの倒れていた森を横薙ぎするかのように放たれた。
アゼルの魔力とサリュの瘴気によって融合し、生み出された極大な刃が、木々をあっさりと両断しながら立ち上がったヴェクターへと襲いかかる。
さしずめ魔力弾ならぬ魔力斬とも呼べる一撃が迫る中、ヴェクターは逡巡した。
止められるか――否。
ならば避けてみせようか――それは矜持が許さない。
挑発して自ら喧嘩を吹っかけておきながら、今更になって逃げるように避けるなど、栄えある〈黒竜〉の一族を担う者として、あってはならない所業だ。
ならば。
「おおオオオォォォッ!」
全身全霊を以って打ち砕くのみと決意したヴェクターは、〈黒竜〉の奥の手とも云える竜化を発動させる。黒い鱗に覆われ、鈍い光を放つような体躯を曝し、叫ぶような咆哮は竜の咆哮へと変化を遂げた。
竜の一族が使える奥の手、〈竜化〉。
圧倒的な力を発揮する代償に、自我は残らず、破壊の限りを尽くす。
本来、その力を使うべきは死地。
不退転の決意を胸にし、命を燃やす時のみに使うべき技を前にして、魔族の者らは一様に驚愕に目を剥いた。
――何がそこまでさせるのか。
それを知るのは、この数分間の戦闘で互いに通じるものがあったアゼルのみだろう。
迫る魔力斬を、竜化したヴェクターが【
先程のそれとはまるで異なる、闇で世界を塗り潰すかのような黒い奔流がアゼルの放った一撃を呑み込もうと襲い掛かった。
これが例えばアゼルのみの魔力によって純粋に放たれた技であったならば、ヴェクターの強大な力とは互角に渡り合う事もできただろう。
しかし――――サリュの瘴気は、生半可な魔力程度ならば物ともしない。
ヴェクターが竜化してまで放った【竜の息吹】は、ぶつかり合う事すら許さぬかのように斬り裂き、ヴェクターへと肉薄した。
いざ、竜の首を落とさんと迫る一撃。
――――しかしその瞬間。
ヴェクターの目の前にはプレゼントでも詰められているかのような巨大な包装された箱が生み出され、爆発。ヴェクターの巨躯が、間一髪で魔力斬を避ける形となって吹き飛ばされ、大地を滑って静止した。
誰もが予想し得なかった事態に困惑する中、アゼルはちらりと横へ視線を向けた。
「――アラバド。なんのつもりだい?」
アゼルの視線の先には、大仰に腕を回して腹の前へと移動させ、深く腰を折った〈道化〉のアラバドの姿があった。
「陛下、〈黒竜〉の次代を担う若者をこのまま殺してしまうのは、我々魔族にとっては損失になるかと思われます」
「つまり、俺にここで手を引けと言いたいのかい?」
「左様にございます。我々魔族の中でも、〈黒竜〉はなかなかの猛者が集まる種族。陛下のお力になる事は間違いないかと。もっとも、滅ぼしてしまうと仰るのであれば、ワタクシとて陛下の道を遮るおつもりなどございません。陛下の意思は我ら魔族の総意でありますゆえ」
仮面の下に隠しているアラバドの真意を探るように、アゼルはじっとその顔を見つめた。
「アラバド。勘違いしない方がいい。今回は君の手のひらの上で踊らされてあげるけど、次にくだらない茶番を仕込んだら、その時はどうするか判らない。それを承知しているのなら、ここは手を引こう」
返事を待たずに背を向けるアゼルと、そんな彼のもとへと即座に近寄ったネフェリア。二人の背を見送りながら、アラバドは仮面の向こうで誰にも悟られぬように深く息を吐きながらも、ぶるりと身体を震わせる。
――嗚呼、素晴らしい。
ぽっと出の自称魔王どころか、あれは先代とさえ比べるべくもない程に強い――本物の魔王だと、アラバドは歓喜に打ち震えていた。
竜化した〈黒竜〉すら歯牙にもかけない、圧倒的な力。
あらかじめ仕掛けていたアラバドの魔法――【
思わず、陛下と口にしてしまったのは〈道化〉らしからぬアラバドの、隠せない畏敬の念の表れであった。
かくして――魔王アゼルの力は彼らの前に知れ渡った。
魔族随一の変わり者である〈道化〉によって催された祭典は、この場に居合わせた者も、遠くからこの戦いを見ていた者にも、一様に魔王降臨の真実を突き付け、魔大陸は新たな時代の幕開けを迎えたのである。
ちょうどその頃。
レアルノ王国では、魔王降臨の発表と共に、魔王討伐の先遣隊が歓声に見守られながら、海へと躍り出た。
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