Ⅰ 生贄の王国編
1-1 庭園の管理者
一夜明けて翌朝。
アゼルの眼前に並んだ皿は、パンや野菜のサラダ、それに肉といったきちんと調理された食事が並べられている。
それは昨夜の夕食もそうであったのだが、どうにも昨夜は世話に徹するネフェリアに見られながら自分だけ食事を摂るといった状態に気まずさを感じ、こうした疑問を抱く余裕もなかった。
一夜明け、僅かに混乱していた心も落ち着きを取り戻したと言うべきか。
あるいは、根幹にある日本人としての意識というものが魔王というものに染まりつつあるのか。
その理由まではアゼル自身にとっても定かではなかったが、こうして食事をしながら会話をする程度の余裕は得られた。
神の提案を受け、魔王として姿を現したアゼルではあるが、かと言って早速『人族同盟』に喧嘩を売れば良いというわけではない。
魔王が率いる魔族の軍勢。
かつて世界を敵に回した、目に見える脅威を作り上げる必要もある。
しかし、今のアゼルが持っているカードは、魔王(自分)と夢魔族、そして恭順を示したアラクネのみである。
そこで、朝食を食べながら目下の目標としてネフェリアと相談した結果、まずは権力の象徴とも言える魔王城の修復作業と、配下が集う魔都の開発を進行しつつ、夢魔族の〈翼〉を使った外の情報収集といった点から着手するべきだというネフェリアからの進言を受け、何から着手するべきかと考えながら食事をしていたアゼルが最初に気になったのが、魔大陸の食糧事情に関してであった。
「――食糧事情、ですか?」
朝食を食べているアゼルの世話をしていたネフェリアは、アゼルの質問を改めて口にしつつ、アゼルの手元にあったグラスに水を注ぎ足した。
「うん。昨夜の食事と言いこの食事と言い、ずいぶんと豊かなものだと思ってね。魔大陸内全体でこうした食事が食べられる程度には潤っているのかなって」
ネフェリアは質問の意図をいまいち理解できなかったようで、アゼルが第一印象に抱いた蠱惑的な雰囲気とは打って変わって、きょとんとした様子で小首を傾げていた。
いまいち要領を得ないといった様子のネフェリアに、アゼルは続けた。
「ほら、昨日ちらっと外を見たけれど、見渡す限り森が広がっていて開拓している様子が見えなかったからね。自生している作物だけで食事を賄っているのか疑問に思ったんだ。まさか全て自生しているもので賄っているわけじゃなさそうだしね」
「そういう意味でしたか。この魔王城に関しては、手入れしている者がいますので、しっかりと管理されているものです。陛下が口になさっている肉などは、エニスの率いる〈角〉の者達が狩ってきていますが、魔大陸全体でこれが一般的というわけではありません」
ネフェリアがそう答えたのも当然で、そもそも食事を摂る必要がない種族も珍しくない、とネフェリアは続けた。
「食べなくても生きていけるのか?」
「はい。私達魔族は、空気中に漂う魔素を呼吸によって取り込むことによって魔力を補えるので。他の種族のように食事を摂らなくては生命として活動できない、といった欠点はありません」
食べなくても生きてはいける。
魔力の補充を助ける働きがあるため、基本的には食事はするが、獲物が見つからないのなら別に構わない。
あまりにもアゼルが持っていた知識とはかけ離れた現実ではあるが、漠然とそういうものであると受け止める事にした。
「あれば便利だけど、なくても死ぬわけではないって感じなのかな」
「そうですね。種族によっては完全に嗜好品として愛されている節もありますが、生きていく上で必ずしも必要というわけではありません。魔力を大量に消費した場合などはその限りではありませんが……」
「魔力を大量に消費したら食べるってこと?」
「はい。自然に回復を待つより、食べ物に含まれる魔素を体内に入れた方が回復は早いと言われております。実際、私達も厳しい修行を繰り返していた頃は、毎日枯渇寸前まで魔力を使って、食事で回復を促していましたから……」
ネフェリアが少し遠くを見つめながら瞳のハイライトを消して語る様は、当時は本当に厳しい修行だったのだと物語っていた。
夢魔族は魔王の懐刀だ。
当然、要求される一人前と呼べる水準は高いものであり、魔王様絶対主義とも言える思想がある以上、そこに妥協は許されなかった。
血の滲むような、と形容するなど有り得ない。流血、気絶は当たり前の訓練を幼少時より行い、大人になるまでに一通りの訓練を終えなくてはならない。
巫女は夢魔族の中で最も美しく、力の強い者が選ばれる。
ただでさえ魔族の数は減少傾向にあり、夢魔族の総数は三〇にも満たない程度しかいないが、その実力は他の魔族も一目置いている。
ベルファータが魔王城に入った際に恐怖していたのも、夢魔族の実力を知るからこそだと言えた。
そうした背景を知らないアゼルは、「苦労したんだろうな」とどこか軽い反応をしつつも、話題を戻した。
「なら、食事が普及する方がいいだろうね」
「はい、街を築いて魔族を集わせるのならば、やはり必要にはなると思われます。先程も申し上げた通り、魔力を大量に消費した場合、食事に含まれる魔素の摂取は何もしない状態に比べれば雲泥の差があります。陛下の剣となる者達を鍛えるのならば、効率をあげる為にも普及する必要はあるかと」
「お、おう……。ま、まぁ食事が嗜好品にもなるのなら考える必要はありそうだね。なら、後で様子を見に行きたいんだけど、大丈夫かな?」
微笑んで陶然と「陛下の剣を鍛える」と告げるネフェリアの笑みに何やら不穏な寒気を覚えながら、アゼルはすっと視線を外し、それを見なかったことにして話を戻した。
「でしたら、食後にリリイの庭園へ参りましょう」
「リリイ?」
「はい。樹の精霊――アルラウネである彼女が魔王城を守り、この城にまで植物が入り込まないようにと管理しながら、陛下と夢魔族の食事用に作物を育ててくれているのです」
「……なるほどね。じゃあ後で行こう」
アルラウネという存在を耳にして、魔法でにょきにょきと成長していくような姿でも見せてもらえるのだろうかなどと考えつつ、この日の行動を決めたアゼルは、魔王として降臨して二日目にして、早速動き出すのであった。
――結構大きいんだな、この城は。
魔王城の外に初めて足を踏み出したアゼルは、外観を眺めてそんな感想を抱いた。永い時間の経過によって魔王城を取り囲む城壁などは崩れているが、城の傷み具合はそこまででもない。
玉座の間の一部が崩れていたため、そうした廃墟じみた城なのかと思っていたアゼルの印象は良い意味で覆されることとなった。
魔王城の正門から見れば裏手側に位置する場所。
崩れかけた城壁との間に作られたその一帯は、確かに庭園と呼ぶに相応しい様相を呈していた。
まず目に入ったのは巨木である。
中央にドンと構えるように聳え立ち、その周囲は耕されている土の上に、青々とした葉が様々な色彩の果実を実らせていた。
石で加工された水路も設けられており、その水はあちこちを通って巨木の根の部分へと繋がっている。
綺麗な水は、巨木の上部から表面を伝って生み出され、水路へと流れ込んでいく。
「あの樹が水を作っているのか?」
「
アゼルがネフェリアへと問いかけた質問に、甲高い子供の声が返答した。
アゼルが振り向くと、ネフェリアの肩に座り込んだ二対の透明な翼を持った、体長十五センチ程度の少女がパタパタと足を動かしながら、笑みを向けていた。
「陛下に向かってそんな口の聞き方をするのではありません。リリイに陛下が庭園を見に来たと伝えてください」
「ふふふっ、わかった!」
嬉しそうに笑いながら、ネフェリアの肩から少女が光を纏って飛び立っていく。
「申し訳ありません、陛下。失念しておりました。リリイの庭園にいる妖精――フェアリーは精神面で幼い者が多く……」
「いや、構わないよ。俺がこんな調子なんだから、別に敬えなんて言うつもりはないしね」
「いいえ、陛下! 陛下は我々魔族を統べるお方にございます! 崇め敬うのが本来の我々魔族が取るべき態度であり――!」
「あー、うん。まぁ無理しない程度で……。それより、あのフェアリーはリリイの助手?」
スイッチが入って熱く語ろうとするネフェリアを宥めつつ、アゼルが庭園へと歩き出しながら話を逸らすように問いかけると、ネフェリアはそれが不服だったようで僅かに口を尖らせ、追従しながらも気持ちを切り替えようと一つ咳払いした。
「フェアリーは精神的に幼く、力もない種族ですので、リリイが面倒を見ているのです。その代わり、庭園の細々とした仕事をこなしています」
「へぇ……、意外だな」
「意外、でしょうか?」
「うん。精霊や妖精ってのは、どちらかと言うと魔族に敵対しそうなイメージがあったんだ。精霊と親しい森人族(エルフ)が『人族同盟』にいるって考えると、魔族とは敵対関係にありそうだったから」
「精霊や妖精は、どちらの味方にもなります」
ネフェリアから返ってきた答えは、アゼルにとっても予想だにしていないものであった。
「精霊や妖精は、その場に生まれる者達です。害する者は敵と見做しますし、気に入った者には味方します。妖精は精霊の下位にいる存在ですので、精霊に従うことで庇護下に置かれて生活するそうです」
「――えぇ、その通りですわ」
庭園の中へと足を踏み入れたところで、ネフェリアの説明を肯定する女性の声に、アゼルとネフェリアが声の主へと振り返る。
そこに立っていたのは、青々とした緑を思わせる鮮やかな緑色の長い髪を携えた少女。膝裏まで伸びる波打つ髪の所々には花が飾られている。
白いワンピースに身を包んだ少女は、その見た目とは裏腹に落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「お初にお目にかかりますわ、魔王アゼル様。この庭園を任されているアルラウネのリリイですわ」
膝を折って目礼してみせる様は、やはり見た目の印象とは似つかわしくない大人の女性を思わせるようなものであった。
「これはご丁寧に。魔王として生まれた若輩者のアゼルです」
「……ふふふっ、先代の魔王様とはずいぶんと異なる雰囲気ですのね。でも、丁寧な口調はおやめくださいませ。ネフェリアに睨まれてしまいますわ。ふふふ、魔王様が降臨なさって磨きがかかっちゃったのかしら? まるで恋する乙女みたいに頬まで赤くしちゃって……」
「リ、リリイ!? ちょっと、変なこと言わないでよ!」
「あら、魔王様も聞きたそうにしていらっしゃるわよ? 魔王様、この子は昔から――」
「わー! やめてよ!」
幼少期を知る大人に幼い頃の恥ずかしい話を嬉々として語られるとは、まさにこの事であった。
普段は大人らしく、妖艶な色気さえ放っているネフェリアもリリイにはどうやら頭が上がらないようで、叱責するではなく懇願するかのような態度で声をあげているものの、リリイはそんなネフェリアの嫌がる態度などお構いなしといった様子である。
そうして語られたのは、ネフェリアは昔から魔王の顕現を待ち続けており、それはこれまでリリイが出会ってきた巫女の中でも、かなり強い想いを抱いているようだった、との話であった。
顔を赤くしてリリイを止めようとしていたネフェリアも、さすがに諦めたのかガックリと地面に蹲り、耳を塞いでいる。
上下関係はリリイの方が圧倒的に上にあるようだと認識しつつ、アゼルは苦笑を浮かべてそれを眺めていた。
「――それより、一つ訊いてもいいかな?」
「あら、ネフェリアの可愛いお話はもっといっぱいあるのだけれど……、またの機会にしましょうか。何なりとどうぞ?」
「先代の魔王とは異なる、と言っていたけれど、リリイは先代を知っているのか?」
未だにネフェリアの過去を赤裸々に語り続けようとしていたリリイの緩んだ空気が、アゼルの質問で一変した。
真意を見透かすような緑色の双眸をアゼルへと向けたリリイは、しばしの沈黙の後にゆっくりと頷いた。
「えぇ、わたくしがこの地にいるのは、もう数千年も前からですわ。先代の魔王も、その後の魔族も見てきましたもの。本物の魔王と、それに続こうとする偽物の違い。――そして、貴方様が本物であるということも、理解しておりますわ」
それは――魔王の本質を知り、魔族が魔王を名乗る事と魔王が魔王として現れる事の違いを知っている、という意味。
敢えて訊ねずとも、リリイがそれをと理解した上で告げているのだと、アゼルは悟る。
「聞かせてくれないか? 先代の魔王と、これまでの歴史を」
「ネフェリアから聞いているのではありませんか?」
「ネフェリアからは聞かせてもらっているけど、リリイなら客観的に語ってくれそうだと思ってね。ほら、ネフェリアは、その……」
「魔王崇拝が過ぎる、というところでしょうか。分かりました。長い話になりますから、中で話しましょう。――ネフェリア。いつまでも恥ずかしがってないで、仕事をしてきなさいな。魔王様は私とお話ししたいそうよ」
水を向けられてようやく我に返ったネフェリアは、アゼルを放って仕事に向かうことに僅かに戸惑った様子でアゼルを見つめた。
視線の先では、普段のアゼルの柔らかな雰囲気は、この瞬間には魔王のそれとなって表れていた。
そのただならぬ気配を感じ取ったネフェリアは、リリイの提案を受け止めて頷いた。
「……分かりました。陛下、ベルファータのように魔王城へとやって来る者達がいるかもしれませんので、私は魔王城内へと戻ります」
「うん、何かあったら呼んでくれ」
短く返事をして、リリイに「こちらへどうぞ」と促されたアゼルはネフェリアを見送らずに歩いていく。
リリイがアゼルを招いたのは、フェアリーが言っていた水樹(すいじゅ)の中であった。
巨大な樹の内部をくり抜かれたように広がり、絨毯が敷かれ、ベッドがあり、テーブルと椅子が置かれ、簡素なキッチンまで用意されているそこは、まるで人が住んでいるかのような生活空間が広がっていた。
アゼルを椅子に座らせたリリイは、紅茶を注いだカップをアゼルの前に置くと、向かい合うように椅子に腰掛けた。
柔らかな湯気に混じるような清涼感のある匂いに、アゼルは早速カップを口につけて紅茶を飲み、「美味いな」と小さく感想が漏れる。
そんなアゼルを微笑を湛えて見つめていたリリイは、同じようにカップを口に運んで紅茶を一口飲むと、そのままカップを両手で包み込み、遠い記憶を思い返すように目を細めた。
「この中に足を踏み入れた魔王様は、アゼル様が初めてですわ」
ゆっくりと過去を思い返すように、リリイは小さな口から言葉を紡いだ。
「先代にして初代。最初にして最後の、本物の魔王。あの方と私の関係は、上下関係ではなく、互いの利害関係が一致しただけに過ぎませんでした」
「利害関係?」
「えぇ。外にいるフェアリーについてはネフェリアから聞きましたか?」
「あぁ、うん。弱いフェアリーを庇護するように、リリイがフェアリーを守っているのだ、とは」
「その通りです。この大陸はもともと、外界からは隔たれるように海に囲まれた平和な地でしたが、先代魔王様の出現から魔族と魔物が生まれるにつれて、危険な地へと変わっていきました。その変化から逃れようと、フェアリーはわたくしのもとへとやってきたのです」
言葉を区切ったリリイは再び紅茶を一口飲むと、カップをテーブルの上に置いた。
「世界の歪みが創りだした、魔王という存在。そして彼が創りだした魔族と、魔素を吸って変質化させた魔物に、当初は理性など有してませんでした。目に映る全てを敵とする様は、まさに破滅の象徴でしたわ。わたくしを襲おうとする魔族や魔物も決して少なくありませんでした。そう考えると、むしろ最初は敵対関係にあったと言えるでしょう」
「……魔王という存在が、世界の歪みによって創られた存在だと、どうやって知ったんだ?」
――まさか、キミもなのか。
言下にそう訊ねるアゼルを前に、リリイはくすくすと笑った。
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