0-1 魔王降臨

 かつて魔大陸と呼ばれた地があった。


 魔王と呼ばれた存在によって支配され、魔族と強力な魔物が跋扈していたその場所では、神々の加護を受けた〈普人族〉――《ヒューマン》の勇者達を擁する『人族同盟』との激しい戦いが起こり、ついには魔王は討伐された。


 激しい戦いは大地を穿ち、山を削り、魔王の居城は倒壊寸前にまで至った。

 勇者ら一行は魔王を討伐すると、生き残りの魔族からの襲撃を危惧して早々に帰還を果たし、残された荒れ果てた地は、魔王を討たれて勢力の少なくなった魔族だけが取り残された。


 幸い、魔大陸は『人族同盟』の勢力圏が伸びる各地の大陸とは離れた海上に隔絶された地にある。近隣の海中には凶悪な魔物が住み着き、かつて勇者らに協力した銀竜などでなければ、魔大陸への移動は不可能であり、その後『人族同盟』からの襲撃はなく、魔大陸は静寂に包まれていた。




 崖の上、森を見下ろすように佇むかつての魔王城。




 最上階に設けられた玉座の間は、天井が突き破られ、赤黒い雲に覆われた空を覗かせていた。

 かつて勇者と魔王が死闘を繰り広げ、ついには魔王の心臓へと聖剣を突き立てて終わった戦い。しかし同時に、勇者という新たな化物を作り上げた皮肉極まる世界の始まりを齎せたこの場所。


 静寂に包まれたまま、数百年前と同じ姿を保っている様は、まるで主の帰還を待っているかのようであった。


 何年も、何十年も、何百年も変わらないこの場所に変化が訪れたのは、偶然にも一人の魔族の女がこの場所へとやって来た、そんな時であった。


 艶やかな黒髪は臀部に届くまで伸ばされ、側頭部には、ゆるやかに湾曲した左右対称の角。額に向かうにつれて、そのまま先端は天へと伸びていた。

 切れ長の赤い瞳を携え、町に繰り出せば誰もが目を釘付けにしてしまいそうな整った顔立ち。欲情を催しそうな程の肢体を晒すように胸元の空いた真っ赤なドレスと、その上には黒いローブを肩がはだけるように着ている女性は、突如として目の前に現れた強大な魔力の渦に思わず目を剥いた。


 墓守、あるいは巫女。


 そう呼ばれている彼女は、その波動にみるみる恍惚とした表情を浮かべ、自らを差し出すかのように、まるで抱擁を求めるかのように両手を差し出すと、そのまま膝をついた。


「――あぁ……、帰って来られたのですね。偉大な、偉大なお方」


 まるで詩を朗読するかのような物言いで紡がれた言葉は感動に震え、双眸には涙すら浮かべていた。


 女の声に応えるかのように、空が割れ、一条の光が玉座の目の前へと降り注いだ。

 直視できない程の光量が周囲を満たす中、それでも一瞬たりとも見逃すまいと玉座を見つめていた女は、やがて光が収束していくと同時に姿を現した一人の男の姿を、目に灼きつけるように見つめた。


 黒い髪に鮮血を思わせる程の赤い瞳。

 普人族ヒューマンに近い、しかし似て非なる容貌。

 魔王の証とすら言われる、赤黒い角が側頭部から額に巻き込むように伸び、瞼を押し上げた瞳は、僅かに時が経つと全てを呑み込むかのような漆黒へと変わったようであった。

 歳の頃は十代後半の青年。


 身体から溢れる膨大な魔力は吹き荒れる風のように暴れ回り、青年が小さく深呼吸するとピタリとやんだ。


 女は自らの幸運を噛み締めながら、頭を垂れた。


「――無事の生誕、心よりお祝い申し上げます。魔王様」


 全てを捧げるべき主の誕生を目の当たりにして告げられた女の言葉。それに返ってくる言葉を待ち侘びるだけで、女の心は満たされていく。


 しかし、どれだけ待ってみても魔王の言葉は返ってこなかった。


 無礼かと思いつつも、女はちらりと視線をあげて魔王の姿を視界に映すと、魔王は自分から視線を外すように佇みながら、どこか気恥ずかしそうに口に手を当てていた。


「……えっと、魔王様……?」


「……悪いんだけど、立ってくれるかな」


「は……?」


 尊大な物言いで「大儀である」と一言告げてもらえるだけでも、女の心を満たすには十分な言葉であった。しかし、返ってきた言葉はどうにも威厳に欠いたような口調であり、その言葉に困惑した女も思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。


 無礼に当たる声にハッと我に返った女が謝罪を口にしようとした、その瞬間であった。魔王は沈黙に気まずさを感じたのか、一つ咳払いした。


「……その、態勢だと、胸が……うん」


「……胸、ですか? 私程度の身体、ご覧になりたいと仰せならばすぐにでも――」


「――逆だよ!? 隠せよ!」


 青年魔王の声はその場に響き渡るのであった。


 仕方なく女を立たせると、魔王はごく自然な流れですぐ傍らにあった玉座へと座り、瞑目した。


 ――奇妙な感覚であった。


 さながら、脳内にかつての情景がそのまま蘇ったかのような。夢であって、しかし確実に実在した記憶であったと確信できるような、不思議な感覚。


 肘掛けに肘をついた手に顎を乗せながら、神と名乗る存在との邂逅について頭の中を整理していた。

 あの真っ白な空間でころころと笑う、少年のような口調の少女神の言葉を。


 確かに日本に生まれ、日本という国も、世界も知っている。

 しかし知識として、漠然と「存在していた事柄」を理解しているものの、いざ仕組みや理論を思い出そうとしても、頭の中に靄がかかっているかのように思い出せない。

 そこに悲しみや寂しさ、哀愁を抱くような感情は、青年の心には微塵も浮かんではこなかった。

 どこか遠い世界の出来事を知るかのように、或いは、創作物の中の知識を知ったかのような気分でしかないのだ。


 ともあれ、自らの存在は把握している。


 神々に求められて生み出された魔王。

 必要悪で絶対悪。

 悪の象徴として全てを敵に回すことで、神を救え。


「――さま……。魔王様」


「あぁ、ごめん。少し考え事をしていた」


 青年の思考を遮ったのは、一人の魔族の女性。

 扇情的な服装に美しい顔立ちは青年の心を惑わすには十分すぎる代物であり、先程の跪いた態勢ではふくよかな膨らみが押し潰され、これでもかと強調されていた。

 そこで立つように命じたのだが、柔らかな曲線はしっかりと青年魔王の視界に映り込んでいた。


「申し訳ありません。ですが……私に跪かずに立てと命じられ、かつそのような砕けた物言いは、どうぞお控えくださいませ。巫女として仕える私ならばともかく……、その、他の者が目にすればいらぬ増長を招きかねません」


 出会って数分で諫言を述べる事に、女は戸惑っていたようだ。申し訳なさそうに眉をひそめ、今にも「気に障ったのなら殺してください」とでも言い出しかねないほどの悲愴な決意が青年魔王の目に見えた。


「いや、そう気にしないでくれ。そもそも、増長されても困るわけじゃないから」


「……困らない、と?」


「あぁ。もし歯向かうというのなら、敵として対処するだけだからね」


 特に気負った様子もなく、自信に満ち溢れて見下すようなわけでもなくさらりと紡がれた言葉に、女は小さく息を呑んだ。

 それはまるで、大人の男が「取るに足らない羽虫を振り払うことに、さしたる労力など必要ない」と、ごく自然な事を当たり前として口にしているかのような、そんな口調であったからだ。


 ――これが、魔王として生まれ、魔王として生きる者なのか。


 女は、目の前にいる毒気もなければ威厳もないといった様子の魔王の姿を見て、心のどこかで拍子抜けしていた自分は愚かであったと確信した。

 偉ぶらず、驕らず、しかし自信がないわけではない。

 自らの実力を当たり前のものとして受け止め、その上で判断してみせているからこそ、目の前の青年は魔王なのだ。


「まぁ、キミにとっての魔王像がどういったものかはなんとなく分かったけど、俺は俺だから。口調で偉そうに振る舞うつもりもないし、そう畏まられても困るから、もう少し気軽に構えてくれないか」


「き、気軽にと申されましても……」


「何せここには、キミと俺しかいない。いちいち気を遣われても息苦しいだけだよ。そんな事より、巫女って何かな?」


 そんな事、と片付けられてしまう以上、この魔王に対して口調や態度を言及しても恐らくは聞き入れてもらえないだろう。そう考えて、女は一度気持ちを切り替えるように小さく嘆息すると、改めて魔王を見つめた。


「魔王様の側にお仕えし、寵愛を受けていた種にございます。しかし、勇者に討たれてからは、ここで貴方様の再誕をずっとお待ちしておりました」


「寵愛って……。まぁ、なんとなく理解はできたけど、先代の魔王とキミ……」


「ネフェリアでございます」


「ネフェリア、ね。ネフェリアは先代魔王との面識はあるのかな?」


「いいえ、ございません。私達〈夢魔族〉――《リリス》は、代々魔王様の再誕を願い、悠久とも言える時の中でこの場所をお守りしてきただけにございます。こうしてご尊顔を拝謁できた私は、夢叶わずに亡くなっていった先代達とは違い、望外の――」


「――あー、堅苦しい言葉はやめてくれ。先代に面識があったのなら、先代について聞きたかっただけなんだ」


 説明の途中から段々と恍惚とした表情で語り出すネフェリアに制止をかけて、青年魔王はこめかみを押さえた。

 ネフェリアの魔王崇拝ぶりは凄まじいものがあり、先代の意識を引き継いでいるわけでもない彼にとっては、他人事でしかないのだ。当然、それについて得意気に受け止めるなんて真似ができるはずはなかった。


「……その、お伺いしたいのですが」


「あぁ、何かな?」


「魔王様のお名前を……」


 そう言われて、初めて青年魔王は気付いた。

 確かに「前世を生きた」という過去もあるが、記憶は残っていない。知識はあるが、実体験ではない虚構とも言える。

 であれば、自分は何者であり、その名を示す名は存在しているのか、と。


「……質問に質問で返すようで悪いんだけれど、魔王ってのは最初から名を持っているものなの?」


「えぇっと、そう窺っておりますが……」


 そう言われては、何か良い名前がないかと訊くのも憚られる。

 魔王と言われて青年が思いついたのは、サタン、ルシファーといったありきたりな名前ばかりであった。とは言え、その名をそのまま口にする気にはなれなかった。

 青年の勝手な印象だが、どうにもサタンと言われれば黒々とした肌の巨躯を誇る姿が思い浮かび、ルシファーと言えばどうしようもない美男子という独断と偏見が満載のイメージが定着してしまっているのだ。


「俺の名……。俺の名は……」


 玉座から立ち上がり、カツカツと踵を踏み鳴らしながら思案しつつ、青年魔王は瓦礫の向こうに広がる広大な大地を見下ろした。


 鬱蒼とした木々の生い茂る広大な森。

 空は青年がこの場所へと顕現した際に生まれた一条の光によって赤黒い雲は破かれ、青空を覗かせていた。遠くを見やれば、徐々に赤黒い雲は切れ目を生じさせている。


 魔王が亡くなり数百年という沈黙を破り、今。この大地は閉ざされた時を再び刻み始めようとしている。


 曲がりなりにも、「魔王」とは王だ。

 これからこの地を一から発展させる必要もあるだろう。


 そこまで考えて――ふと魔王の口角がつり上がる。


「――アゼル」


 青年の脳裏に浮かんだのは、とある聖書で目にした堕天使――アザゼルの別称であった。


 アザゼル――神の使いにして悪魔となった堕天使。

 様々な解釈がある中の一説によると、天使の傲慢を兼ね備え、人間を娶り、人間の文化を向上させたと語られている存在であった。

 その様は、これから先の青年魔王に酷似しているのではないかと、ふとそんな考えが浮かび、アゼルの名を選んだのだ。


 夢魔族のネフェリアを侍らせながら、魔族に繁栄を齎す存在にならんとする未来の自分に相応しい、と。


《……ふふふっ、いい名前だね。希わくは――キミはボクらの期待を裏切らず、天罰が落ちないまま過ごしてくれると助かるよ》


 どこかで、ころころと笑う声が鳴り響いた。

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