弍ノ九、あのう……僕の頭がどこにもないみたいなんですけど

 首とおぼしき形の泥が、地面に転がった。断面から磯巾着イソギンチャクのような黒い触手が這い出した。四方へとのたうち、伸びてゆく。元の身体へ戻ろうとでもいうのか。


 恋町は、泥をべチャリと踏んづけた。切っ先で容赦なくえぐる。泥の内部に蠢いていた目玉が、フッと消えた。

「死んだか?」

 兵之進に目線を走らせ、尋ねる。

 首なし兵之進は、手を前に突き出して、ぺたぺたと頭の位置を探った。


 何もない。


「あのう……僕の頭がどこにもないみたいなんですけど」

 仕方なく、口もないのに、もごもごと答える。

「殿中、殿中でござるぁぁァわわわ……!」

 一磨がまた、白目を剥いてぶっ倒れた。


「あっ、一磨! 大丈夫ですか? すごく顔が悪いですよ! しっかりしてください!」

 首なし兵之進は、あわてて一磨の傍らに駆け寄った。強く肩を掴んで揺する。しかし、そういう当の本人は、顔どころか首すらない始末。人の顔色どころではない。

「う、ううむ……?」

 一磨は、ようやく息を吹き返した。強打した後頭部をさすって起き上がる。

「おお、兵之進か、無事であったか。拙者、どうやら、悪い夢を見ておっ……」


 虚ろにさまよっていた目と目が合った。否、今の兵之進に首はないから、正確に言うと首があるべき場所に何もないことを改めて確認した。と言うべきか。


「ぴぎゃぁぁぁああああああああ!」

 一磨は、この世の終わりみたいな悲鳴をあげた。再度ぶくぶくと泡を吹いて、海老反りにぶっ倒れる。

「ああっ、一磨が!」

「人の顔色心配する前に、まずてめえのツラを何とかしろい」

「そんなこと言われたって。どうしろと言うんです」

「手違いで一緒くたに消しちまっただけだ。墨を落とせば、元に戻る」

「それを最初に言ってください」


 ぶつくさ言いながら、兵之進は、井戸につるべを放り込んだ。水を汲み上げ、袖をまくりあげて、ざぶざぶと顔を洗う。洗うたびに、墨で消えていた兵之進の首が元通りに現れた。


 恋町は物憂げに説明する。

「《鬼消し》は、描いたもの、塗ったもの、触れたものを墨塗りにして術だ。斬ったのは、てめえの中のあやかしだけだよ」

 兵之進は、手拭いで顔や手を拭きながら、恨めしげに振り向いた。

「でも、何も、一磨の目の前で、わざわざこんなことしなくても」


 恋町は、大小の二本を帯に差した。

「てめえがいちいち憑依ひっつけるたちだってことを黙ってるほうが悪い。夜になって、下手に金魚のフンみたいにあやかしを引き寄せられたら、いくら俺様が絶倫でもこっちの身が持たんわ。ってことで、帰れ」

「はいはい、分かりましたよ。帰ればいいんでしょ……えっ帰る?」


 恋町は、矢立を指先に引っ掛けて、くるくると回した。

「これを届けるまでが、てめえらの仕事だ。あとは俺がやる」

 冷ややかな口調だった。


 兵之進は息をついた。わずかに歯を食いしばる。

「それはないでしょう。僕らにも力になれることがあるはずです」

「ねえよ。じゃあな」

 恋町はそっけなく言い捨てた。さっさと歩き出してゆこうとする。


 問いかけをはぐらかされたと感じて、兵之進はその後ろ姿を追いかけた。

「恋町さん!」

「ちょろちょろついて来んな。一磨の心配はしなくていいのか、ああ?」

 恋町は、首だけをそらして肩越しに振り返った。邪険に睨む。


「とにかく、てめえは一磨を連れて現世あっちに帰れ。今ならまだ間に合う。暮れ六つまでには絶対にな。そう、綺乃あいつにも固く言われてるだろ? 俺には、俺の仕事があんだよ。邪魔すんなや」

 突き放す言い草だった。兵之進は眉根を寄せた。唇をとがらせて言い返す。

「……僕にだって、できることはあります」

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