第4話 えへへ…お兄ちゃん…

「ん…すう…」


すでに日は沈み、まさにその日一日の終焉を迎えようとする夜の帳。

六畳一間の畳張り、出入り口は鍵のついたドアはなく、襖で閉じられているその部屋。

そんな部屋の主であり、この家の長男である涼羽の寝息が、周囲に響いては淡く消える。


妹である羽月の唐突な、突拍子もないお願い。

そのお願いを受け入れ、妹の望むままにさせてあげることとなったこの日。


そうすることで、自身の中で芽生えてきた、得体の知れない感情…


そんな感情に身を任せて、妹を可愛がり、甘やかしていた涼羽。

妹である羽月は、それはもう喜び、これまで以上に懐いてくるようになった。


そんな自分ではよく分からない変化に、思考を巡らせるも結局は分からないまま…

その変化に対する、そして、その変化が何なのかに思考を巡らせることに対する気疲れ。


そんな妙な疲れを自覚した涼羽は、一日の家事をすませ、風呂に入ってから、すぐにこの自室の布団に体を投げ出すように横たわらせると、瞬く間にその意識を闇に落とした。


「ん…」


現在、高校三年生で、今年で十八歳となる男子である涼羽。

普段はその一匹狼な性格が表面に出ているため、冷たく近寄りがたい雰囲気を出してしまっている。


だが、その容姿そのものは今年十八歳の男子とは思えないほど幼げで、愛らしい。

少し長めの前髪のおかげで、顔がやや隠れてしまっているため、あまり目立たないが。


女子の平均より少し高い程度の小柄な身長、女子のように丸みを帯びた華奢な体格。

それでいて、童顔で普段はツリ気味になっているものの、実際にはくりっとした大きな瞳。

小さいものの、筋の通った形のいい鼻。

柔らかそうで、少し桜に色づいた唇。


そんな涼羽の寝顔は、まさに可愛らしいの一言に尽きた。


人が見れば、成長半ばの幼い少年のように。

人が見れば、愛らしい少女のように。


どちらにも見えて、それでいてどちらにも見えない。

そんなギリギリの危ういバランス。


そんなまさに『中性的』な、危うい感じが、涼羽の魅力といえるだろう。


人が見れば思わず連れ去ってしまうだろう、愛らしい寝顔を晒しながら眠る涼羽の部屋の襖。

それが、静かに開き――――




――――そして、ひとつの影が、静かに入り込んでくる――――




そして、その影は、柔らかな布に包まれた何かを胸に抱きかかえながら、この部屋の主の眠る布団のもとへと、戸惑いも躊躇いもなく、真っ直ぐに近づいていく。


「…えへへ…お兄ちゃん…」


人影は、涼羽の妹である羽月だった。


年頃の兄妹ということもあり、涼羽の鶴の一声でそれぞれの部屋を持つこととなったこの二人。

普段から兄妹仲こそはよかったものの、お互いの部屋に入る機会というものはなく…


ましてや、こんな夜中に忍び込むような形で入ることなど、決してなかった。


「…お兄ちゃんの寝顔、可愛い…」


いつもはちょっとしたことで目を覚ましてしまうほど、眠りの浅い涼羽だったが…

この日は自身にとって得体の知れない大きな変化のためなのか、かなり深く眠り込んでしまっていた。


そのため、羽月が部屋に入り込む気配に気づくこともなく、ただ眠り続けている。


そんな涼羽の寝顔を見た羽月の、ほうっとした溜息を吐き出すかのような一言。


常に自分が起きている間に、眠る姿を見せることのなかった兄の寝顔。

そんな兄の寝顔の可愛らしさに、思わずそんな一言が漏れてしまう。


「お兄ちゃん…一緒に、寝るね?…」


相手の反応を伺うような、問いかける言葉をその唇から音として吐き出す。

が、眠り続ける涼羽の反応など、一切待つこともなく…

兄の眠る、整然と整ったままのその布団の中に、自身の非常に小柄な体を潜り込ませていく。


そして、兄の体にぴったりと寄り添っていく。


「お兄ちゃん…お兄ちゃん…」


幼子が一人で眠れず、母の母性を求めるような羽月の姿。

自分には与えてもらうことのできなかった、母の情愛。

しかし、今はそれを与えてくれる存在がいる。


それが、目の前にいる実の兄。


この兄自身は、そんな自覚も、意識もない。

でも、それでも、羽月が欲しがっているものを確実に与えてくれる。


そう、与えてくれるようになった。


そんな兄に、より一層母の情愛を求めてしまう羽月。

そんな想いが、羽月に兄の布団に潜り込む、ということをさせてしまった。


「えへへ…」


心の底から嬉しそうな、喜びに満ちた表情をその美少女顔に浮かべながら…

涼羽の胸の中にそっと顔を埋める。


それだけで、自分が求めているものが満たされるかのような…

ふんわりとした優しさ。

ぽかぽかとした温かさ。

そっと包み込んでくれるかのような包容力。


それらを、余すことなく感じることができる。


「お兄ちゃん…だあい好き…えへへ…」


湧き上がってくるのは、そんな兄、涼羽への愛情。


自身の中から湧き上がる想いを、言葉として兄に向ける。

それがまた心地よくて、思わず微笑んでしまう。


「お兄ちゃんと一緒だと、いい夢が見れそう…」


もうすでに夢見心地の羽月。

そんな羽月の意識に、心地よいまどろみが浸透していく。


「お兄ちゃん…だあい好き…おやすみ…なさ…い……くぅ…」


その意識を手放す直前にも、湧き上がる愛情を乗せた兄への言葉。

そんな言葉と放つと同時に、羽月の意識は手放された。




――――




「…ん…」


時刻は早朝五時半。

まだ少し肌寒い空気。

窓の外も、まだ薄暗い。


この家の家事の全てを担っている涼羽の、普段からの起床時間。

ここから、涼羽の一日が始まる、のだが…


「?…あれ?…」


何かが自分の体に寄り添っているような…

自分とは違う、自分の体温が移った布団のものでもない…

そんなぬくもり。


ふと、そのぬくもりの方へと視線を向けてみると――――




「…すう…」




――――自分の胸の中で、幸せそうな表情で眠る妹、羽月の姿が、そこにあった。


「は、羽月?なんでここに…」


一瞬でまどろんでいた思考がクリアになる涼羽。

部屋を別々にして以来、初めての出来事に、驚きを隠せなかったが…


「…お兄ちゃん…」


未だ自分の胸の中で眠り続ける妹の、心底嬉しそうな顔。

そんな嬉しそうな顔で、自分を呼ぶ声。


そんな妹の様子に、毒気を抜かれたかのように、涼羽の表情も柔らかくなる。


「…ふふ…もうちょっとこのままでいよう…」


普段、周囲の人間が絶対に見ることのない、涼羽の柔らかで優しげな笑顔。

その笑顔には、実の妹に向けるたくさんの慈愛が込められている。


人が見れば、そんな表情の涼羽をこう称していただろう。




――――女神がいる――――




と。

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