第五章 君のいない日々

1

 ――トントン


「はい」


 立派な木のドアがゆっくりと開くと、頭の先からつま先まで清潔なメイド服を着た女性が入ってきた。


「績様、朝食の用意が整いました」

「わかりました」


 績はそう返事をすると、全身が映る大きな鏡の前で制服のネクタイを指で少し整え、部屋を出た。無地の赤いカーペットが敷かれた大きな階段の壁には、ここに住んでいたご先祖の顔や美しい風景画などが飾られ、木の手すりはピカピカと光、メイド達の手でしっかりと磨き上げられている。


 広いダイニングルームに入ると、高い天井には大きなシャンデリアが存在感を放っている。そして、すべてが一級品であろう品が部屋を飾り、部屋に置かた長いダイニングテープルには椅子が全部で十脚置かれ、テーブルの真ん中にはメイド達が毎日手入れをしている生花が飾られていた。ここの主人であろう四十代くらいの男が入口の一番奥に座り績を待っていた。


「おはよう、績」

「おはようございます・・・・・・峡さん」


 二人は挨拶を交わすと、績は黙って食事が用意されている席に座った。


「まだ、私のことを峡さんと呼ぶのか・・・・・・もうあれから5年経つんだ。なのにまだお前は一度もお父さんと呼んでくれないんだな」

「・・・・・・」

「はぁ・・・・・・まあいい。今日はお前の高校の卒業式だな」

「はい」

「すまないが、今日も抜け出せない仕事があるから式には行けない」

「はい・・・・・・」


 績は前にある温かいスープを見つめた。そこに映っていた自分の顔に表情が少しもなかったことに何も驚かなかった。そして、ゆっくりステンレス製のスプーンを手に取りスープをすくった。


 五年前、績は連れ去られるようにここへ来た。突然、使用人が自分の前に現れ、父親がいることを明かされた。訳も分からないうちに、空縫は追い出すように績をその使用人に渡し、車へと押し込んだ。とても傷つく出来事だった。VENNYからLASに入ると、黒い車は高級住宅地に入った。車窓からは生まれてこのかた見たこともない大きなお屋敷が並んでいた。広い庭には均等に生えた芝生。そこには立派な犬を飼っている宅もある。なにもかもが目新しく、自分の世界とは別なものに感じた。


「績様、着きました」


 使用人が車のドアを開けると、そこにはここの住宅地で一番立派なのではないかと思うほどの大きなお屋敷が績の目の前にあった。


「こ、ここ??」

「はい、ここが峡様のお屋敷でこざいます。あ、大変失礼しました。今からは績様のお屋敷でもございますね」


 使用人は績にニコリと微笑んだ。


「いえ、僕はまだここに住むと決めたわけじゃ!」

「ささ、寒いのでお屋敷にお入りください。峡様ももうじきお帰りになられると思います」


 うんも言わさず績は屋敷の中へ引きこまれた。


 屋敷の中は今まで以上に目を疑った。すべてが完璧でキラキラを輝いていて、どこを見ても埃一つ落ちていなく行き届いている。そして、辺りは夕食のいい香りが漂っていた。


「おかえりなさいませ」


 メイド服を着た女性が何人か玄関で出迎えていた。


「この子が峡様のお坊ちゃんでございます。身体をきれいにして良いものに着替えさせてください。こんな汚い姿で峡様に合わせたら罰が下ります」

「かしこまりました」


 メイドはそう言うと、頭を下げ績を浴室へ案内した。メイドは表情一つ変えず先を歩いていった。


「ここが、浴室でございます。タオル、バスローブ。すべて整っております。また、なにかございましたら、お呼びください」


 メイドは頭を下げるとそこを立ち去ろうとした。


「あの!」


 績はそれを呼び止めた。


「なんでございましょうか」


 績は口ごもり、そのまま下を向いた。


「なんでもないです・・・・・・」

「では、私はこれで」


 なにも言葉が出なかった。績は半分諦めていたのだ。もう、ここから抜け出せないのだと。どうせ帰っても、空縫が自分を受け入れてくれる訳がない。そう思った。


 浴室もそれはそれは広く浴槽は大きな円形で、大人十人は入れるんじゃないだろうか。暖房もきいていて少しも寒くなかった。そして、リモコンらしきものが壁に掛けており、興味本位でそれを押してみた。すると、大きなスクリーンが現れそこには人が話している。そう、績は初めてテレビを見るのだった。目を丸くしそれを見たら、次は他のボタンを押してみる。


 ――ピピッ


 績の口は徐々にあいていく。そして空を見上げていた。浴室の中で空とはおかしいと思うかもしれないが、その言葉が一番あっていた。そのボタンを押すと、天井がすべてガラス張りに変わるのだ。績の頭には夜空が広がっていた。


「月だ・・・・・・」


 績は浴槽の中に入るとその月をずっと眺めていた。顔が火照り少しのぼせていた。

 

 そして、湯気が空に消えていくように、績の意識は今に戻った。

 

「績、どうした。食が進まないのか? まさか卒業式で緊張してるのか?」


 はっとして績は峡の顔を見た。


「いえ」

「それじゃあ、私は会社に行ってくる。頑張るんだぞ」


 峡はそう言うと、上着をはおり、帽子を被って黒い革のカバンを片手にダイニングルームを後にした。

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