3

 績は空縫の事が心配でその日はほとんど寝れなかった。寝床から起き上がると目を擦りながら部屋を出る。いつもより1時間くらい早い居間はまだ薄暗く照明が必要なくらいだった。台所に行き、顔を洗うと水の冷たさに身体が強張る。すぐにタオルで拭き、出かける準備を始めた。まだ、いつもよりも早いが、績は昨日のことが気がかりでならなかった。緋璃と躑躅がいる部屋を少し覗くとまだ眠っている。起こしては悪いと、物音を立てないようにそっと家を出た。


 績は少し息を上げながら小屋へ向かった。薄暗い外は林の中に入ると一気に真っ暗になった。おぼつかない足を確かめながら進む。そして林を抜けるとその先にはいつもの菜園と小屋が見えた。績は少し安堵したように息を漏らすと、ゆっくり小屋へ向かって歩き出した。績はドアの前に立つと一度息をスッと止め、のっそりと静かにドアを開けた。


 顔を中に入れるとまだベッドで眠っている空縫の姿が見えた。そっと小屋の中に入ると、夜がまだ眠そうな目をして績を見てきた。持っていた餌を容器に入れ、そのまま空縫の方へ歩き出す。寝息を立てている空縫の寝顔は起きている時とは違ってまだあどけなさが少し残っていた。まだ14歳なのだ。なのに小屋で一人暮らしで、自給自足の生活。あまりにも厳しすぎる現実。しかし、スラム街はそういう所だ。もっと深刻な人達もたくさんいる。餓えて、凍えて亡くなる人もたくさんいる。病気になっても薬がない。治せる場所もない。そういう所なのだ。あらゆる便利なものに溢れた現代社会。しかし、これが今の自分達の現実なのだ。


 績はそんな空縫の寝顔を見て小屋をあとにしようとドアに向かって歩き出した。ふと、テーブルに目がいく。そこには《ショパン全集 ノクターン》が置かれていた。喉元を動かす。績は自分でも知らぬうちに手が楽譜を掴んでいた。瞬きを何度かすると、ゆっくりページを開いた。すると、パラっと写真らしきものが落ちた。


 ――写真? 前はこんなもの挟まれていなかったはずだ。


 

 写真の裏には日付と最愛なる家族と書かれてある。表を見るとそこにはまだ幼い空縫の姿があった。面影がある。間違いなかった。そして、一緒に映っているのは父親と母親、そして妹だろう。皆、微笑み幸せそうな家族がそこには写っていた。写真を見た感じからしてとても裕福そうに見える。母親と妹はドレスを着て、父親と空縫はスーツを着ている。空縫は蝶ネクタイを付けていてとても可愛らしかった。きっと写真館で撮られたのだろう。績がじっと写真に気を取られていると、背後から勢いよくその写真を奪い去っていくものがいた。


「あっ!」


 績は突然のことに少し声を漏らすと、慌てて後ろを振り向いた。そこには写真を身体の後ろに隠す空縫の姿があった。


「おまえ・・・・・・」

「ごめん、勝手に見るつもりはなかったんだけど・・・・・・」

「嘘を付くな。どうせこの楽譜が置いてあったから見たんだろ」

「ごめん、どうしてもあの曲が気になって」

「はぁ・・・・・・」


 空縫は大きくため息を付くとベッドにドサッと座った。少し表情に気まずさが伺えた。そして、績を睨むように写真を突きつけてきた。


「見たな」

「ああ・・・・・・」

「そうか、なら仕方ない。お前は俺のことをもっと知りたいか?」

「え、なんだよ急に」

「知りたくなければ、言う必要もないからだ」

「そりゃ、知りたいさ」

「なら、話す。ただ少し長くなるかも」

「いいさ、まだ時間はある」


 績の言葉を聞くと空縫はゆるりと話し始めた。


「あれは、俺が6歳の時だ。親父はある研究開発に携わっていた偉い研究者だった。詳しいことは知らなかったが、俺はそんな親父のことを幼いながらも尊敬してたし、好きだった。しかし、3年後に親父は携わっていた実験から外され、研究所から追放されたんだ。理由はわからない。その時は聞けなかったんだ。突然職を失った親父は抜け殻のようになって、何もしなくなった。そんな親父を見兼ねてか母さんは金を持って知らない男と家を出ていったんだ。金もなきゃ住むとこも失い、俺達はスラム街にきたって訳さ。だが、親父は変わらなかった。何をするもなくただぼーっと外を眺めて過ごしてた。俺と妹は食うもんを探し回った。ゴミもあさったさ。そんな日々が続く中、ある日。親父も俺たちを置いて消えちまったんだ。手紙すらなにも残さずにな・・・・・・。それからさ、俺と妹はここに小屋を構えて住み始めた。街路沿いにある元の家で子供二人住むよりは安全だからな。妹とはここで2年間くらい暮らした。妹は俺のひとつ下でお前と同い年だな。妹もピアノが好きだった。あの頃は12歳だったがいろんな曲を習得していた。才能があったんだ。妹は将来ピアニストになるって言ってた。こんな土地で金もなければ親もどこにいるかわからない。夢なんて叶えっこないって思った。でもな、それでも俺はどうにかして妹の夢を叶えてやりたいってずっと思っていたんだ」


 空縫は徐ろに《ショパン全集 ノクターン》を手に取った。そして《ノクターン第17番ロ長調Op.62-1》が載っているページを開いた。


「この曲が最後だった」

「え・・・・・・」

「妹はこの曲が難しいって嘆いてた。ずっと夜遅くまで弾いてた」


 空縫は昔を思い返すように上を見上げた。


「お兄ちゃん。私、いつかいろんな人の前でピアノを弾いてみたい。お兄ちゃんは私のピアノいつも聞いてくれるし、褒めてくれる。でもね、もっともっとたくさんの人に私のピアノを聞いてもらいたいの」

「そうか、いつかそういう日がきっとくるさ。智紗ちさには才能があるからな」

「お兄ちゃんたら・・・・・・そんなことないよ。私、下手だし。今弾いてる曲もまだ全部弾けてないし、とても難しいの。いつになったら弾けるのかな・・・・・・」

「大丈夫さ、智紗ならすぐ弾けるようになる! 俺が保証する」

「何言ってるのよ・・・・・・! じゃぁ練習はじめるね」

「ああ、頑張れよ」


 空縫はふと現実に帰るように顔を戻した。


「でも、この曲を最後まで弾くことはなかったんだ」

「どういう・・・・・・」


 績が最後まで言い終える前に空縫は口を開いた。


「消えちまったんだ。一年前、ある日突然。妹は帰ってこなくなった」

「え・・・・・・」

「俺は、ずっと探し回った。息ができなくなるくらい街中、走り回った。何日も何日も・・・・・・だが、妹は見つからない。今も探してる。でも、見つからないんだ・・・・・・どうして・・・・・・俺の大事なものは全部消えちまうんだ。居なくなっちまう・・・・・・なぁ、お前もいつか俺の前から消えちまうのか?」

「空縫・・・・・・」


 空縫は眉をひそめ涙を浮かべた。瞳に溜まった涙はまるで澄んだ湖のように綺麗に光っていた。そんな空縫の表情を見て績は胸に熱いものが込み上げてきた。


「そんなわけない! 僕は突然消えたりなんかしない。君を悲しませるようなことはしないさ」


 績はそう言うと空縫を強く抱きしめた。抱えた身体は少し震えていた。

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