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績はベッドの上に胡坐をかき空縫から渡された楽譜を何冊か手に取っていた。これが楽譜かとばかりに目を輝かせ心を弾ませる。ベートーベン、モーツァルト、リスト、ショパンいろいろあった。その中でも一際使い込まれた楽譜が1冊あった。績は気になり開いてみる。《ショパン全集 ノクターン》と題名がついている。パラパラと捲っていくと癖になっているページがあった。《ノクターン第17番ロ長調Op.62-1》という曲だ。この楽譜を使っていた人がこの曲をきっとたくさん練習していたのであろう。績はどんな曲かすごく気になりうずうずした。しかし、楽譜を見るのはこれが初めてで見てもさっぱりだった。績は一先ず、楽譜の読み方から勉強することにした。体調のことなど忘れて、ひたすら本に集中する。績はとても嬉しかった。こんなこと思いもしなかった。この土地で楽譜の勉強ができるなんて。胸の高鳴りが止まなかった。
気づけば外は夕日に包まれていた。小屋の隙間から赤い光が差し込む。績はぐぐっと大きく背伸びをして、一息つくともう一度さっきの曲に目を通してみた。音符記号や変化記号のことは少しは理解できた。最初の方を片手で弾いてみることにした。績の心は躍った。どんな音が出るのか興奮で鼓動が早くなる。最初の音符を見て鍵盤を押してみる。低く胸の奥を震わすような音が小屋中に響き渡った。績はパッと表情を明るくする。続きを弾いてみる。とてもゆっくりでおぼつかないが、徐々に曲らしくなっていく。何度も何度も最初の部分を弾いてみる。片手だが少しづつリズムを掴んできた。そのとても綺麗な和声はどことなく悲しく、とても美しかった。両手で弾きたい、先がもっと弾きたい。績はどんどんこの曲にのめり込んでいく。もっと勉強してこの曲を弾いてみせる。績はそう心に決めた。
辺りはすっかり暗くなり績はそのことにも気づかず、月明りだけの薄暗い小屋の中で弾いていた。最初の部分はだいぶ様になってきたと思う。ただ、まだ片手だ。一つ一つ噛み締めるように鍵盤を弾いていく。
その頃、空縫は仕事を終え小屋のすぐ傍まで来ていた。小屋からピアノの音がする。
「あいつ、寝ないでこんな時間までピアノ弾いてるのか。ちょっと叱ってやらないとな」
空縫は険しい顔を見せ、小屋へと近づく。すると、その表情はどんどん力を無くし、みるみると哀しげな顔へと変わっていった。空縫はドアの前でパタリと足を止めると、ドアにかけていた手を小刻みに震わせていた。ややあって空縫は喉元を大きく動かすと、いつもより重たく感じるドアをゆっくり開けた。中では績がまだ弾いている。その後ろ姿を見た途端、空縫は大粒の涙と共に顔を歪ませた。それに気づかずまだ弾き続ける績。ゆっくりと後ろから肩に手を伸ばす。だが、震えが止まらない。涙も止まらない。漸く気配に気づいたのか績は、後ろを振り返った。
「あ! ごめん。全然気づかなかった。もうこんな暗いんだね。集中しすぎちゃったな。ダメだな僕は・・・・・・空縫?」
績は空縫の異変に気付いた。大粒の涙を流し立ち尽くす空縫に慌てて椅子から立ち上がった。
「ど、どうしたんだ! なにがあった? 君の泣いてる姿、初めて見た・・・・・・」
空縫は下を向き何も言わない。
「本当にどうしたんだ? 話してくれないと分からない」
そう言うと、空縫から重たい口が開いた。
「なんでその曲を・・・・・・?」
「なんでって、とても使い込まれてたし、誰かが必死で練習したのかなと思って。きっととてもいい曲なんだろうなって興味を惹かれたんだ」
績は表情を明るく、少し興奮気味に言う。
「もうやめてくれ・・・・・・」
「え・・・・・・」
「もうピアノは弾かないでくれ・・・・・・最初から間違いだったんだ。お前にピアノなんて弾かせるんじゃなかった・・・・・・」
「なぜ?」
「うるさい!! 弾くなと言ったら弾くな!! ここは俺の家だ。俺に逆らうな!!」
空縫は突然大きな声を上げると、すぐさまピアノのふたを閉めた。すごく一方的で績は困惑していた。ただ、そこには計り知れないなにかがきっとあるに違いない。績はピアノの前で肩を落とす空縫の後姿を見て、そう思った。後から楽譜も全部取り上げられ、績はそんな強引な空縫の振舞いに、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「身体の方が大丈夫なら。悪いが、今日は帰ってくれないか・・・・・・」
空縫はこっちを少しも見ようとせずボソっと言う。
「ああ・・・・・・なんか悪かったな。知らないうちにまた君に迷惑かけてしまったのかな」
「迷惑とかそういうんじゃない! ただ今日は一人にしてくれ、それだけだ・・・・・・」
空縫の身体から放つ行き場のない悲しみが言葉として針のように績の胸に突き刺さる。
「わかった。また明日な。夜のこと頼んだ」
そう言うと、績は静かに小屋を後にした。
績が出ていくのを見ると、空縫は一気に膝を床に落とした。《ショパン全集 ノクターン》を腕に抱え、また涙を流した。
績は帰り道考えていた。まだ指には鍵盤の感触が残っている。生きてきた中で一番感動した瞬間だった。掌を握りしめる。空縫の言動を思い返した。あれは普通じゃなかった。あんな取り乱す空縫の姿は見たことがない。なにがあったのか知りたかったが、きっと口にはしてくれないだろう。ただ、空縫のあんな表情を歪ませて、涙を流す姿を見たら、なにも思わずにはいられなかった。できることなら助けになりたい。そういうやり場のない気持ちが績の胸の中でいっぱいに広がった。
「ただいま・・・・・・」
自宅に帰ってきた績は、力のない声で言う。すると直様、奥から緋璃が駆け寄ってくる。
「おかえりなさい、遅かったわね。それに心配してたのよ?」
「ごめん・・・・・・ちょっと調子が悪かったんだ」
「そうなの、もう大丈夫そう?」
「ああ、平気だよ」
「良かった・・・・・・あ、伊佐地さんには私から出向いて連絡しといたから。あの人慌てん坊さんよね。リンゴ転がしちゃって大変だったんだから」
緋璃は少しクスッと思い出し笑いをした。
「店長たまにそうなんだよね。母さんのことになると変なんだ」
「私・・・・・・?」
「いや、なんでもない」
口を閉じるように自分の部屋へと向かう。
「あ、待って」
緋璃が呼び止める。
「なに?」
「あなたのエニシの子なんだけど・・・・・・」
「うん」
「・・・・・・いえ、なんでもないわ。おやすみなさい」
「おやすみ」
緋璃は口に溜めていた思いを上手く言葉にできなかった。閉まっていく部屋のドアを見詰めながら一つ大きくため息をつき、台所へ向かった。
「シャワー上がったぞ。お前も入れ」
「ええ・・・・・・」
躑躅がシャワーから出てくる。躑躅と暮らしてからは緋璃は夜の仕事を辞めて、今は孤児院に勤めはじめた。このスラム街に来る前は、昼間は保育所で働いていた。緋璃はやはり子供が好きだった。最近は心に余裕が出てきたのか昔の緋璃に戻りつつあった。
「どうした? 何か悩み事か?」
元気のない緋璃に躑躅は後ろから抱きしめる。
「私は、酷い母親なのかもしれないわね・・・・・・」
「急に何を言い出すんだ。ずっと績のために働いてきたんじゃないか。そんなことないさ」
「でも・・・・・・」
緋璃は沈んだ表情を浮かばせ、口をつぐんだ。そして躑躅のほうに身体を向けるとギュッと抱き返した。
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