第21話:釣り勝負

 翌朝、いつもより早めに朝食を終えて、大竹と設楽は伯父さんの案内で釣りに出かけた。

 昨日のことがあったせいか、設楽はいつも以上に大竹の傍にくっついていたが、伯父さんと話をするには、設楽は傍にいない方が良いだろう。それなら、と、大竹は設楽に勝負を持ち掛けた。


「おい、どっちが釣れるか肉賭けるぞ」

「肉!?」

「勝った方が、今日のバーベキューで良い肉を食えるんだ。ほら、俺はこっちで釣るから、お前はポイント変えろ」

「よぉし!吠え面かくなよ!」


 気持ちを切り替えるためか、設楽は勇んで大竹から少し離れ、張り切って釣り始めた。


 暫くの間、大竹と伯父さんは当たり障りのない話をしながら釣り糸を垂れていた。

 川面はキラキラと新緑を映して輝いている。設楽は魚を釣り上げるたびに、「岩魚獲ったど~!」等とテレビの真似をして、見せつけるように魚を持ち上げている。


「ったく、智一はいくつになってもガキみたいだな」

 伯父がしょうがない奴だと喉の奥で笑うと、大竹も「そこがあいつの良い所ですよ」と笑った。


「裏表がなくて、屈託もなくて……。今時珍しいですよ。自分の気持ちに真っ直ぐで」

 その慈しむような顔に、伯父さんは小さく瞬きをした。


「……先生は、どうして智一と一緒にここに来たんですか?」


 昨日、設楽には面白おかしくあんな言い方をしたが、もちろん伯父さんの中には設楽の言動を心配する気持ちが強いのだ。学校の教師と2人でこんな田舎に来るなんて。ストーカーと言っていたが、智一は何かとんでもない問題でも起こしたのだろうか。

 伯父さんの顔に不安の色を見つけて、大竹は小さく笑った。


「俺、この性格なんで、学校じゃそりゃもう盛大に嫌われてるんですよね」

「先生?」

 大竹の言葉の意味が分からず、伯父さんは訝しげな顔をした。智一のことを訊いたつもりだったのに、何故大竹の話になっているのか。 

 大竹は小さく苦笑してから、言葉を続けた。


「そんな俺のことを慕ってくれたのは、設楽だけだったんです」

「あぁ……」


 大竹の竿にアタリが来て、大竹は2、3度竿をしならせてから、力みのないフォームで山女魚を釣り上げた。


「あの頃、設楽が何か問題を抱えていたのは分かっていました。でも設楽のように真っ直ぐな性格なら、それがあまり変な方向に行くこともないだろうと思って、逃げ場所だけ用意して、後は見守るだけにしようと思っていたんです」

「問題というと……ストーカーという奴ですか?」

 伯父さんは眉を顰めて大竹を見た。


「はは、最近は片思いの相手を思い続けるだけでもストーカー扱いで……。俺達がガキの頃は、好きな人の周りを用事にかこつけてウロウロするくらいは誰でもやったモンですけどね」

 だからそれはたいした問題じゃないと思うんですよ、と、大竹は嘯いた。


 まぁ、実際には山中と高柳が校内で乳繰り合ってるのを指咥えて眺めてるために学校の鍵持ち出して合い鍵作って校内に偲びこんでたんだから、そう考えると結構なストーカーっぷりだが、そいつは「守秘義務」ということで内緒にさせていただこう。さすがにそれ言ったらもうシャレじゃ済まないしな。


「そのうち設楽の様子がちょっとのっぴきならなくなってきて、そろそろ何か介入した方が良いかと思っていた頃に、設楽の方からキャンプに誘ってきたんですよ。じゃあせっかくの機会だから洗いざらい吐かせてやろうかと思って、俺、設楽を酔い潰してみたんですよね」

 その大竹の告白に、伯父さんはギョッとして大竹を見た。


「……先生、智一は未成年ですよ……?」

「もちろん知ってますよ?自分の生徒ですから」

 大竹がニヤリといたずらっぽく笑ってみせると、伯父さんは呆れたように一息ついて、それから「まぁ、智一はうちの倅なんかよりよっぽど酒は強いんですけどね」と、こちらもニヤリと笑った。


「そうなんですよ。焦りました。ビール2本空けても顔色すら変わらなくて、しょうがないからバーボンに誘導して、やっとベラベラ喋り出して」

「ははは、そん時の先生の顔が目に浮かぶようですね」


 あの時、酔った設楽は元々誰かに全てぶちまけたかったのだろう、ボロボロ泣きながら呂律の回らない舌で、話の前後も飛びまくらせながら、事の始めから最後まで微に入り細に入って語り出したのだ。


 その当時、設楽のへの気持ちもまだモヤモヤとしていただけだった大竹は、男同士のそういう世界があることは知っていてもそれが実際その辺に転がっている物だとは思っていなかったし、自分の設楽に対する気持ちがそういう物だとも思っていなかったから、とにかく青天の霹靂というか目から鱗といか、頭をぶん殴られたような思いでその告白を聞いたのだ。


 だが大竹にはそんな概念は無いし、タチとかネコとかいうのが何のことかすら分からないし、サンドウィッチと言われても食べ物のサンドウィッチしか知らないし、呂律も回ってないし、話はあちこち飛んで一貫性がないし、自分も結構酔っぱらってるし、むしろ話の内容に焦って酒量は増えていくし、だから設楽が何を言っているのか、始めはさっぱり理解など出来なかった。


 設楽が潰れた後に1人で必死に話の筋をくっつけて、何とか理解できるように筋道を立ててみたのだが、考えれば考えるほどその話はおぞましく、とうてい本当のこととは思えなかった。


 あの高柳と山中がそんな事をしているというのも開いた口が塞がらないし、ましてそこに設楽を引きずり込んだというのも意味が分からない。

 あの2人が付き合っているのなら、何故そこに設楽を巻き込まなければならないのか。何故設楽が2人の間で苦しまなければいけないのか。山中が高柳と付き合っているとして、その山中が何故設楽を抱くのか。しかも高柳の命令で、高柳の目の前で?


 話の概要が理解できると、大竹は思わずえづいた。吐き気がするのは酒を飲み過ぎたからという訳ではない。


 パートナーのいる男を好きになると言う事は、そんな仕打ちを受けなければならないほど悪い事なのか。

 設楽はただ山中を好きになっただけだ。山中が高柳と付き合っているのなら、さっさと設楽が失恋して、それで終わりになればいいだけの話ではないのか。こんなボロボロになって苦しまなければならない意味が、大竹には分からなかった。 


 何故設楽がこんな目に遭わなければならないのだ。しかも、本来生徒を守り導く立場にある筈の教師から、何故。


 その憤りは大竹の中の設楽への憐憫だとか庇護欲だとかを大きく育てた。


 もう高柳に振り回されて、山中の事で泣いて欲しくなかった。

 設楽を守ってやりたかった。

 俺の腕の中で、傷ついた設楽を休ませてやりたかった。


 その気持ちは形の見えなかった何かを刺激して、日を追うごとにその何かに1つの形を与えていった。気づかない振りをする事も、目を逸らす事も出来ないほど、その形ははっきりとした形を取り、日に日にその重量は増していく。


 設楽が、好きだ。


 土曜に1人にでいたくないと言った設楽の逃げ場所を提供してやる。確かに最初はそんなつもりだった。純粋に土曜日、設楽が何も考えずにいられるように、外に連れ出して気を紛らわせようと思っただけだった筈なのに。

 だが気がつくと、それはただの口実になっていた。逃げ場を提供するという耳触りの良い言葉で自分を誤魔化して、ただ設楽に自分の傍にいて欲しかっただけなのだ。


「先生?どうしました?」

 自分の思考の淵に沈んでいた大竹は、伯父さんの声にはっとして顔を上げた。

「ああ、すいません。何か色々あったなぁと思って」

「はは、それだけ長い事、先生が智一の面倒を見てくれてたってことでしょう?」

 伯父さんの思いやりが滲み出た笑顔に、大竹は少しだけ申し訳ない気持ちになった。


 目の端に捉えた設楽の手は止まっていた。さっきよりも大竹に近い場所にさりげなく移動して、2人の会話に聞き耳を立てているらしい。

 一応竿を構えてはいるが、でも設楽は何だが叱られた子犬のような顔をして、じっと蹲っている。


「違いますよ。俺、本当に一緒に遊びに行くような友達がいなくて。設楽が俺と一緒にあちこち出かけてくれる事が、嬉しくて堪らなかったんですよ」


 そうだ。設楽と過ごす土曜日を心待ちにしていたのは自分の方だ。

 あの頃から俺は、設楽をもうただの生徒とは思えなくなっていた。


「今日ここに来たのだって、デイキャンプしようって設楽に誘われて、のこのこ迎えに行ったら設楽のご両親が待ちかまえてて。ものすごい接待をしてもらって、気がついたらここに来る事に決まってたってだけなんですから。設楽のご両親ってそっくりですね。あの息の合った攻撃は防ぎきれませんよ」

「あははは、すいませんね、うちの弟が。あの2人は年は結構離れてるんだが、双子みたいにそっくりでねぇ」

 その時の様子が目に浮かぶのだろう、伯父は楽しそうに笑って了解した。


 つまり大竹は、心配したような学校からの付き添いではなく、本当に智一の友人としてここに来たのだ。本当にそれだけだったのだと、伯父は納得したらしい。


「それより、設楽があんな事を言ってしまって、皆さんにご迷惑がかかるんじゃないかと、そちらの方が心配です」

「何、それは大丈夫ですよ。色っぽい人妻に手解きしてもらったって話でしょう?皆身に覚えがあるんだ、男共は羨ましがりこそすれ陰口なんて叩きませんよ。それに女共だって、それなら私はどうかしらなんて、急に色気づいてるしなぁ」

 面白そうに釣り竿を垂れる伯父に、大竹は素直に頭を下げた。


「すいません、お手数をおかけしました」

「違いますよ、先生」

「は?」


 何が違うのかと伯父の顔を見つめると、伯父さんは顔をふっと柔らかく緩めた。


「美智が何人かの友達に智一の文句を言ってなぁ。そういう噂が回るのは確かに早いですよ。だが俺が話を聞いたときには、もう色っぽい年増の話になってたんです」

「じゃあ、誰が……」

「火消しに回ったのは、優ですよ」

「……遠山が……?」

 それは大竹にとって、意外な名前だった。美智の為なら他人の気持ちもその場の空気も全く読もうとしなかった遠山が、何故。


「優は優で、色々思うところがあるんでしょう。でも、悪い子じゃない。美智は……美智がああして我が儘いっぱいに育っちまったのもまぁ……俺は身内だから分からなくもないんですよ。でもそれは先生や智一には関係のない話です。だから先生達にはもう謝るしかないんですよ」

 伯父さんの顔は生真面目に歪んでいた。何か事情でもあるのだろうか。だがその事情を聞き出そうとは思わない。伯父さんには伯父さんの事情があり、遠山家には遠山家の事情があるのだろう。

 それでも美智のやり方は行き過ぎだった。

 自分はあくまでも設楽の側の人間で、それがどんな事情であってもその事情に振り回されたくはない。


 大竹はただ「伯父さんには良くしていただいてます。何も謝っていただくような事はないでしょう?」と笑って、大きく竿を振った。

 それが合図のように、2人は話を止めた。


 川の水は涼を誘い、心地良さげに流れている。時々魚が跳ねて、きらりと銀色の飛沫が立った。

 2人はそうして暫く黙って釣り竿を垂れていたが、ふと思い出したように設楽に視線をやると、設楽も慌てて竿を振った。分かりやすい奴だ。そういえば、設楽は授業中に居眠りしてもすぐにばれる。そういう要領の悪さが、大竹には可愛かった。


「おい、何匹釣れた?」

「え……まだ4匹」

「俺は5匹だ。お前の負けだな」

「え!?何で!?先生いつまでって、時間制限言わなかったじゃん!自分が勝ったところで終わるなんてずるいよ、先生!延長戦!延長戦希望!!」

 設楽は元気よく立ち上がると、張り切って釣り針に餌をつけ直した。


「よし!それじゃあ俺も参戦するか!」

 伯父さんが腕をぐるぐる回して宣言すると、設楽は焦って反対した。


「伯父さんは地元なんだからダメだよ!毎日のように釣ってるじゃん!!」

「勝った奴が1番良い肉を食えるんだろう?」

「わぁ!ダメだってば!!」

 そのまま3人はわいわいと賑やかに釣り竿を振り、バーベキューで食べるには多すぎる魚を釣り上げても、まだ帰ろうとはしなかった。

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