第10話:おばあちゃん
朝食を食べ終えた頃、「おはよーさんですー」という、既に聞き慣れた声に庭を見ると、そこに居たのは遠山一人だった。
「おはよう」
「あれ?美智は?」
思わず設楽が訊くと、遠山は苦笑して肩を竦めた。
「今日は一人で勉強する日だってさ」
「ふ~ん…」
設楽は少し複雑そうな顔をした。別に残念だと思ったわけではないのだろう。多分、あんなにべったりしていた美智の掌を返したような態度に、途惑っているのだ。
「お前に彼女がいるって訊いて、ちょっとショックだったみたいでさ。や、さすがに彼女がいたって好きは好き、とはいかないか」
「……別に、彼女がいるって訳じゃ……」
思わずぽつりと漏らした設楽の台詞に、遠山はガバリと食いついた。
「え!?彼女じゃねーの!?」
「あ、やばっ!」
余計なことを言った、と思ったときには遅かった。
「そっかー!何だ、自分で採った水晶プレゼントするくらいだから、てっきり彼女かと思った!」
「ちょ、待ってよ!彼女はいないけど、好きな人はいるって事だよ!」
設楽が慌てて遠山に言い直すが、もう遠山は聞いていないようだった。さっそく美智に教えてやんなきゃ、だったら美智にも可能性あるよなと目の色が変わっている遠山に、設楽はうんざりした。
「なぁ優兄、考えてもみろよ!盆暮れにしか会わない従妹と東京でいつも会ってる好きな人だったら、どっちの方が大事だと思う?今更美智のことそんな風に見れるかよ!俺おむつの頃から美智知ってるんだよ!?」
「好きでいるくらい良いじゃねーかよ!」
「でもそれをを俺に押しつけんなよ!」
「良いじゃねぇか。こんな田舎で暮らしてりゃ、お前は東京ってお城に住んでる王子様みたいなもんだ。シンデレラが舞踏会を夢見たって、バチは当たんねーだろ!」
ダメだ。遠山は自分と自分の妹のことしか考えていない。1人で納得したように頷くと、「そうだ、今日はうちで一緒に勉強しない?」とあり得ないようなことを言い出した。
「俺勉強しにここに来たわけじゃねーし。行こ、先生!」
遠山を無視して設楽は大竹の腕を引っ張った。だが、当然のようにそれは遠山が引き留める。
「先生と出かけてたら同じ事だろ。ここで位羽目外せよ!」
「は?羽目外せ?好きな奴がいるって言ってるのに、美智と一緒にいろって言う口がそれを言うのか?」
「別に美智と付き合えとか、美智を嫁さんにしろとか言ってる訳じゃねーだろ。ここにいる間くらい、年も近いんだから、少しくらい一緒にいても」
「うるせーんだよ!!」
設楽は怒りで顔を赤黒くしながら、遠山を睨みつけた。いつも明るい顔で笑っている設楽のこんな顔を見るのは遠山は初めてで、一瞬体が動かなくなった。
「そういう事言うなら、俺はもう2度とこには来ない!先生、もう東京に帰ろう!!」
「お、おい智一!」
「俺は何も考えずにゆっくりするつもりでここに来たのに、何で美智のご機嫌取りが俺の役目みたいになってんの!?なに!?美智ってそんなに偉いの!?みんなが美智の言いなりにならないといけないの!?冗談じゃねぇよ!」
「俺は何もそんな……」
「それと!大竹先生をそうやって邪魔者扱いするのも許せねーんだよ!先生がわざわざ俺に付き合って、せっかくの休み使って来てくれてんのに!大竹先生に謝れよ!!」
怒りのために泣き出しそうな設楽の剣幕に、遠山は焦ったようにおろおろし始めた。それでもなお設楽を引き留めようとする遠山の腕を、設楽は叩き落とす。
「行こう、先生!もう東京に帰ろう!?ここにいたって1つも楽しい事なんてないよ!1つもだ!!」
何事かと、奥からおばあちゃんが顔を出し、子供達も不思議そうに設楽を見上げていた。
「どうしたの?智一?優?ケンカ?」
おばあちゃんの途惑った声を聞いて、やっと遠山は「悪かったよ」と呟いた。それから苦虫を噛み潰したような顔で、設楽を恨めしげに睨む。
「そんなに、美智が厭なのか」
遠山にとっては目に入れても痛くない妹だ。身内の贔屓目を抜きにしても、確かに美智は可愛い顔をしている。だから遠山にしてみれば、何故自分の妹がここまで設楽に厭がられないといけないのか、訳が分からないのだろう。
でも。
「優兄は美智が大事すぎて、俺の事情なんか何にも考えてくれないじゃないか。俺の気持ちは何もかにもガン無視で、自分達の良いように俺に押しつけて振り回してる。そんなの腹立つに決まってんだろ!?同じ事されたらどう思うんだよ!?美智に今すぐ同クラの男と付き合えって言って、美智が他に好きな奴がいるって言ってんのに、良いからこいつにしろって暗い部屋の中に美智と男が閉じこめられたら、あんたどう思うんだよ!あんたのやってることは、それと全く同じ事だよ!!」
それだけ言い捨てると、設楽は大竹の腕を引っ張って、後ろも見ないで自分達に宛がわれた奥の部屋に向かった。
大竹は手を引かれながら遠山にすまなそうに目で合図を送ると、遠山も気まずそうに笑って見せてから、目を伏せた。
「おい、設楽」
大竹が声を掛けても、設楽の顔色は変わらなかった。部屋に入るなり、設楽は本当に荷物を乱暴にまとめ始めた。
「なぁ、設楽」
「もう帰ろう!」
「おい」
「もう厭だ!」
「待てって」
荷物をまとめる設楽の手を押さえると、振り返った設楽は一瞬大竹を睨みつけて、それから大竹の襟首を掴むようにして、その胸に顔を埋めた。
「……あいつら、お前が帰ってきて少し浮かれてんだよ」
「でも!」
「少なくとも、おばあさんはお前に美智と一緒にいろとは言わねぇじゃねぇか。可愛い孫のお前が怒って帰っちまったんじゃ、おばあさんが気の毒だろ?な?」
「何言ってんだよ!」
設楽は大竹の目を、信じられない物を見るような目で見つめた。この期に及んで自分をここに引き留めるつもりか。どうして?
「あんた俺が美智と2人でいて、腹立たないのかよ!俺はあんたが優兄と一緒にいるの見るのだって厭なのに!」
設楽の腕がぶるぶると震えている。大竹は困ったように設楽の腕をそっと押さえて、その腕の震えを止めた。
「俺は、お前が俺を好きだって知ってるから、平気だ」
その台詞に、設楽は虚をつかれたように目を見開いて、大竹を見た。
「そりゃ俺だってお前があの子と一緒にいるところを見るのは腹が立つし、できれば見たくねぇよ。お前の隣りにあの子が並んでると、俺なんかと違って、すげぇお似合いに見えちまうしさ」
「先生…っ!」
設楽が焦って大竹の胸に縋ると、大竹は設楽の腕を押さえていた手を背中に回し、設楽の体を抱きしめた。
「やっぱお前は女の子と一緒になって、世間一般で言うところの幸せって奴をちゃんと掴まえた方が良いんじゃねぇかとか、中学ん時女と付き合ってたんだから、これから先お前が女の方が良くなる可能性はあるよな、とか、そうなったとき、俺はどうするのがベストなのか、とか、そういうことは今回たっぷり考えた。つうか、目の前でお前が女といちゃついてるんだから、イヤでも考えさせられた」
「先生……」
自分でも意外なほど、大竹の声は淡々としていた。自分が思い悩んだ深さに対して、その声は淡々としすぎていると、大竹自身が不思議に思うほどだった。
まだ腹が決まったわけではない。自分はこの事について、多分いつまででも悩む。設楽が高校を卒業する時。社会人になる時。設楽の周りの連中が結婚をし始めれば、もっと悩みは深まるだろう。
設楽は男で、自分の生徒で、一回りも年下だ。こんな事が続くとも思えない。気持ちはいつまでも同じ形はしていない。高校という閉ざされた空間ではなく、もっと大きな世界に出た時に、きっと設楽の気持ちは変わってしまうだろう。
それでも。
それでも、今この気持ちは本物で、この刹那ばかりの間でも構わない。
どれだけ考えても大竹にはこの答えしか出てこないのだ。
「それでもやっぱり、俺がお前を好きで、お前が今好きなのは俺だって、俺が自分で知ってるから、俺はそれで構わない」
それは揺るぎない声だった。
あまりにも大竹らしい声だった。
人に何と思われようが、学校中に嫌われようが、自分の信念を曲げない大竹がここにいる。
設楽は瞬きも忘れて大竹をじっと見た。それからゆっくりと、大竹の背中に手を回した。
「先生は、俺の道しるべだね」
小さく耳を打つその言葉に、大竹は設楽を抱きしめることで応えた。
強く強く、互いの隙間がなくなるほどぴったりと抱きしめ合う。
昨夜の興奮よりも、体が震えた。心の結び合う快感というのがこんなにも深い物だとは知らなかった。
このまま1つに解け合ってしまいたかった。それほどまでに、その抱擁は深く、痺れるほど、震えるほどの陶酔に、2人はいつまでも身を浸していた。
それからどれだけこうしていたのか。その心地良さは次第に即物的な物へと形を変え始めて、2人は段々居心地が悪くなってきた。
「……えと、先生、この流れでやっちゃうとかいうことは……」
「……いや、それはないだろ……」
「ですよね~?」
2人はどうやってこの1つに絡まった手足を解けばいいのかとしばらくの間逡巡し、それからとうとう諦めたように手を離した。
「こないだ先生んちでさ、俺の握ってくれようとしたこと覚えてる?」
「もう忘れた」
わざとらしくそっぽを向いた大竹は、耳まで真っ赤に染まっている。設楽は口の中で「あーもーチクショ~ウ。先生可愛いすぎんだよ~」と意味不明なことを吐いて、「じゃ、行こうか」と立ち上がった。
「おい、まだ帰るとか言うつもりか?」
「いや、先生、鉱石採集セット、持ってきてる?」
「車に積んである」
「じゃさ、川沿いに何かないか、探しに行こうよ」
あぁ、と大竹はほっとしたように息をひとつつくと、「でもこの辺あんまり出なさそうだったぞ」と立ち上がった。
「苦土電気石って言ったっけ。あとフローレンス石?その辺は探したら出そう?」
「あれはちょっと産地がずれてるし、もっと稀少価値だ。まぁ良い、取り敢えず黒雲母くらいなら出るかもしれん。行くか」
荷物を纏めていると、おばあちゃんが「出かけるならおにぎり作ろうか?」と声を掛けてくれた。
「うん。それじゃあお願いして良い?」
「はいはい。ちょっと待っててね」
おばあちゃんが台所に引っ込もうとした時、設楽は小さく「ごめんね、ばあちゃん」と謝った。
「俺、別に美智や優兄が嫌いって訳じゃないんだ。ただ……」
その先を、おばあちゃんはふふっと笑って遮った。
「若いってのは良いねぇ」
ニコニコ笑いながら台所に去っていく後ろ姿を、設楽は申し訳ない気持ちで見送った。
お弁当が出来るまで、2人で縁側に座っていた。迫るように連なる山々の上に青い空が広がり、白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。
「智恵子は東京に空が無いという」
大竹がぼそっと呟くと、「ここは阿多多羅山じゃねーよ」と設楽が突っ込んで、2人で小さく笑った。そうして笑っていると、おばあちゃんがおにぎりや卵焼きをホイルに包んで持ってきてくれた。
「あらあら、楽しそうね。はい、お弁当」
「ありがとうございます」
大竹が受け取ると、お弁当を作ってくれたはずのおばあちゃんの方が深々と頭を下げた。慌てて顔を上げて貰うと、おばあちゃんはひどく真剣な顔で大竹に訴えかけた。
「先生、智一は時々カッとなることもありますが、本当はとっても優しくて良い子なんです。あの……」
おばあちゃんの小さな体は、可哀想なくらい設楽への心配で一杯になっていた。普段離れて暮らしている大切な孫の身を案じ、学校の教師だという大竹に悪い印象を与えないように必死なのだろう。先程までその場を丸く収めるために笑っていた顔も、本当ならずっと心配して、切なくなっていたのだろう。それを笑顔に押し込めて、設楽や大竹が気まずくならないように……。
大竹はそんなおばあちゃんに向かって、その心配を払拭するように、きっぱりと言い切った。
「知ってます」
おばあちゃんに向けられたその顔は、設楽でも滅多に見たことがないくらい優しい顔だった。
「設楽が優しくて良い奴だって事は、俺もよく知ってます」
おばあちゃんは大竹の顔をじっと見つめると、ほっとしたように小さく笑い、もう1度深々と頭を下げた。
「智一のこと、どうぞ宜しくお願いします」
おばあちゃんはそのまま、2人が並んで出かけるまで、ずっと玄関先で頭を下げていた。
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