第五幕 旧鼠とこぼれ梅酒

旧鼠とこぼれ梅酒(一)



 夜が明けて、特にやることも思いつかなかった朔次郎は、春冲の言われた通り、刀の手入れをすることにした。目釘めくぎを抜くと、刀からつかを外し、懐紙で刀身を拭う。打粉うちこを振るう頃合になって、髪結い床の京之助が庭にひょいと顔を出した。


「旦那、おはようございます」

「京さん、おはようございます」

「今日もいつもので?」

「はい、よろしくお願いします」


 背中に回り込んだ京之助が、朔次郎の手元を見下ろして、おや、と首を傾げる。


「旦那が刀の手入れなんざ、珍しいですね?」

「そうですね。同心にとっては、無用のものですから」


 同心はいかに人を殺めず捕えるかが肝心要。そのため、刀を使わずに、十手で下手人を仕留める。だからこそ、同心の子などは幼い時分より十手術を習うのだが、棚から牡丹餅のように御影家へ養子に入り、家督を譲られた朔次郎は十手が使えない。いざという時は、懐に隠したお飾りの十手ではなく、腰のものが頼りになる。


「お優しい顔をしてはいるが、旦那はやっぱりお武家さまなんですねえ」


 京之助はそれ以上無駄口を叩かずに、朔次郎が手入れを終わらせるのをじっと待った。気の利く男だ。深く追及されなかったことにほっと安堵の息を吐きながら、刀身を鞘へと戻す。とその時、来客を知らせる声が上がった。


(もしかして、春冲どのだろうか)


 昨日は何やら考え込んでいた様子だった。もしかしたら旧鼠の謎が解けて、朔次郎に知らせに来てくれたのかもしれない。

 そんな朔次郎の期待に反して、庭に案内されたのは、えらく背の高い若者だった。


「俺は雁助親分の手下で、虎造とらぞうってもんです」


 なるほど。この若者が雁助の言っていた、足の速い手下か。歳の頃は二十前後。にょっきりと伸びた足では、さぞ速く走ることができるだろう。


「今日は親分の言いつけで、旦那を迎えに来たっす」

「迎え?」

「お春ちゃんが、謎解きをすると言っているっす。至急、大和屋にお集まりください」


 お春ちゃん? それはまさか、春冲のことだろうか。

 尋ねる朔次郎を、虎造と名乗った若者は、まるで親の仇を見るような目で睨む。


「当たり前じゃないっすか。春冲なんて気取った名は、あの可愛らしい娘には似合わないっす」

「そ、そうですか。春冲どのも、大和屋に?」

「お春ちゃんは絵を仕上げてから向かうと言っていたんで、多少遅れるようです。迎えがお春ちゃんではなく、さぞご不満だと思いますが、俺と一緒に亀戸へ行ってくれますね?」


 この虎造という若者、見目はそれほど悪くないというのに、驚くほどに目が細い。睨むと糸のように細くなる双眸に根負けした朔次郎は、気がつけばこっくりと頷いていた。


「あの」

「なんっすか?」

「少々気になったのですが、春冲どのの真の名は春というのですか?」


 尋ねる朔次郎に、虎造は糸目を限界まで見開いて驚く。ようやく見えた黒目を、朔次郎はしげしげと眺めた。


「旦那はお春ちゃんの名を聞いてねえんで?」

「はい。本人には忘れたと言われましたので」


 答えれば、どういうわけか虎造は目に見えて機嫌が良くなった。鼻歌でも口遊くちずさみそうな青年を見下ろし、朔次郎は首を傾げる。そんな朔次郎の背中で、京之助は仏頂面のままぽつりと言った。


「旦那は存外、敵が多い」


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