こぼれ梅と大和屋(四)



 大和屋を出た頃には、陽はとっぷりと暮れていた。足元に伸びる真っ黒な影を見下ろして、朔次郎は長い溜息を吐く。溜息と共に、心の黒いものも全て出きって欲しいと願った。

 帰路を辿る道すがら、春冲とは何となく無言が続いた。久兵衛から聞いた話が澱みとなって、大和屋からついて来ているようだ。春冲にも、大和屋からの重い澱みがこびりついて、口が重くなっているのかもしれない。

 門前町に入ると、朔次郎はもう一度こぼれ梅が食べたくなった。澱んだ心を、こぼれ梅の仄かな甘さに救って欲しくなったのかもしれない。

 幸いなことに、一の鳥居にある一膳飯屋はまだ暖簾が下げられてなかった。一日に二度も来るお客相手に不思議そうな顔をするおかみに、朔次郎はこぼれ梅を注文する。


「失礼ですが、お役人さま。こぼれ梅は売り物ではありません。おまけでつけているだけです」

「そうなのですか? 私はあれがどうしても食べたいのですが……」

「じゃあアタシが湯漬けを頼むから、こぼれ梅をおまけでつけてちょうだい」


 おかみが盆にのせてきたのは、大ぶりの梅干しが一つと焼き海苔がかけられた、あっさりとした湯漬けだった。無心で湯漬けをかきこむ春冲に、朔次郎は礼を述べる。


「別に、腹が減ってただけだし、気にしなくていいですよ。それにしても、旦那はこぼれ梅がいたく気に入ったようですね」


 うっすらと微笑む春冲の横顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。


「ねえ、旦那。おかしいとは思いませんか?」

「おかしいとは?」

「大和屋久兵衛の話です。旧鼠は佐吉がいびり殺した鼠のなれの果てだと話していましたが、どうして今なのでしょう?」

「というと?」

「だって、佐吉の悪癖は生まれつきのものでしょう? 今までだって、多くの生き物をいびり殺してきたはずだ。中には、今回の鼠よりもっとひどい殺され方をした生き物もいるかもしれない。それなのに、それらはモノノケになることなく、どうして今回の鼠だけモノノケに落ちたのでしょう?」


 言われてみればそうであるが、朔次郎にはモノノケ側の事情なんてこれっぽっちもわからない。だからこそ、


「モノノケになるものには、なりえるだけの素質があるのではないのですか?」


 と返す朔次郎を、春冲はどこか恨めしそうに見上げる。


「そんなもん、ありませんよ。いいですか、旦那。モノノケってのはね、いつだって仄暗い人の心から生まれるもんなんです」


 つまり、旧鼠を生み出したのも、後ろ暗く思う人の心ということになる。


「それは、佐吉どのの心なのではないですか? 彼は己の罪を深く恥じ入ると共に、亡くなった長助の命を悔いていた。それでも治らない悪癖に、彼自身も悩まされている」

「ほう。旦那は、若旦那の肩を持つってわけですか」

「そういう意味ではありませんが」

「そう聞こえますよ。モノノケだってね、なりたくてなっているわけじゃないんです。モノノケが人を祟るのにも、それなりの理由ってもんがあるんですから」


 そう言う春冲は、随分とモノノケに肩入れしているように見える。だけどそれを言うと春冲が怒りだしそうな気がして、朔次郎は黙ってこぼれ梅を食べた。


「春冲どの。旧鼠は、まだ大和屋に憑りついているのですよね?」

「ええ。今日も屋敷の中をうろうろしていましたよ。久兵衛の話が本当なら、旧鼠の真の狙いは若旦那なのでしょう」

「旧鼠を退治する方法はないのですか?」

「知りませんね。あの若旦那は、憑り殺されて当然なんじゃあありませんか? それだけひどいことをしたんですから」

「春冲どの」


 思わず咎める口調で名を呼べば、春冲の小さな頬がぷっくりと膨れた。


「なんでい、旦那。やっぱり、若旦那に肩入れしているんじゃあありませんか」

「そうではありません。私は町方役人として、起こりうるべき殺しを黙って見過ごすわけにはいかないと言っているんです」

「はっ! 旦那のような人が、よくもまあぬけぬけと殺しを見過ごせないなんて言えますね!」


 感情のまま口走ってしまってから、まずいと思ったのだろう。青い顔をして口を押える春冲を、朔次郎がまじまじと見つめる。


「春冲どの、あなた……」

「……っ」

「いや、やめましょう。あなたには綺麗なもので覆い隠されている世の中の、本当の姿が見えるだけです。視えたものを、私が責める道理はない」


 そう穏やかに微笑んでこぼれ梅を頬張る朔次郎に、気がつけば春冲の肩の力はへなへなと抜けていた。


「……旦那、ごめんなさい」

「なにを謝るのです?」

「だから……いいや。わかりました。この話はナシにしましょう」


 傍から見ると異様なほどの朔次郎の落ち着きぶりは、一種の予防線だ。春冲が朔次郎に視えているものを知られたくなくて、敢えて話が続かないようにしている。そう察したからこそ、春冲は朔次郎の大刀からそっと目を逸らした。


「話を戻しましょう。モノノケに直面した時、あなたと父はどのように対応してきたのでしょうか?」

「善右衛門さまからお聞きではないのですか?」

「あいにく、父からはあなたの名しか伺っていません」

「ふうん……ま、退治なんていう、たいしたことはしていないんですよ。モノノケの無念を晴らして、西方浄土にいけるように心を尽くすだけです。そのためには、モノノケがどうして人を祟るのか、その理由を追及しなければなりません」


 でもそれは、結構難しい話ではないのか。人と違って、モノノケは誰にでもぺらぺらと口をきくわけではない。モノノケがどうして人を祟るのか、理由が知れない場合だって少なくはないはずだ。


「その通りです。だから結局、モノノケを救うことも、祟られている人を救うこともできずに、泣きを見ることだって多くはなかった」


 朔次郎は無意識に、隣の少女をちらりと見ていた。破天荒で自由気ままに見えるこの少女も、日々やりきれない思いを抱えて生きているのだろうか。そしてそれは、あの思考の読めない養父も同様なのかもしれない。


「でもね、旦那なら大丈夫です」

「え?」

「旦那なら、大丈夫なんです」


 まるで自分の言い聞かせるような謎の太鼓判を押した春冲は、勢いをつけて立ち上がった。


「じゃあ、アタシは帰りますね。絵の続きも描かなきゃいけないし」

「あ、はい。お気をつけて」

「ああ、そう言えば今日、おちかさんに会えませんでしたね。大丈夫だったのかなあ」


 自分の影を踏みながらぼやく春冲に、朔次郎は「あ」と声を上げた。そう言えば、春冲にはおちかが里に下がったことを知らせていなかった。


「おちかどのは無事です。ただ、先のことが心に深い傷を残したようで、しばらくは里に戻っているようですよ」

「はあ? 大和屋が、おちかさんに暇を出したってんですか?」


 思いの他食いついた反応だ。詰め寄る春冲に、朔次郎は思わず尻をずらす。


「そ、そのようですね。久兵衛どのなりの思いやりなのでしょうが、おちかどのの身も心配ですから、今朝方雁助どのに頼んで、朱引きの外の村に様子を見にいってくれるよう頼みました」


 答えれば、春冲は何やら考えこんでしまった。ぶつぶつと呟きながらうろうろ歩きをしたかと思うと、そのままだっと駆け出してしまった。気になった朔次郎は、残ったこぼれ梅を惜しく見つめると、春冲に続いて駆け出す。辿り着いたのは、春冲の住まう日陰長屋。転がるように帰宅した春冲は、散らばった半紙の海を泳ぎ切ると、一枚の絵を掴み取った。


「それは……」


 出際に描いていた、大和屋の梅の木と旧鼠の絵である。それをしげしげと眺めながら、春冲はまた何やらぶつぶつと呟いている。やがて、ぽんと一つ柏手を打つと、旧鼠の絵を掴んだまま、飛び出してしまった。


「春冲どの!」


 わけもわからず引き止める朔次郎に、春冲はもどかしげに振り返る。


「雁助のところに行ってきます! もう一度おちかさんのところに行って、訊いて来て欲しいことがあるので」

「私にお手伝いできることはありませんか?」


 一応朔次郎に気を遣って、春冲は思案する素振りをみせた。だが、結局は考えつかなかったのだろう。


「旦那は帰って刀の手入れでもしといてください!」


 それだけを言い残すと、破竹の勢いで走り抜けてしまった。


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