こぼれ梅と大和屋(三)
訪ねた大和屋では、久兵衛は実に苦り切った顔をしていた。本当は朔次郎たちになど会いたくもないのだろう。それでも表に出たのは、一重に朔次郎の持つ十手の威光である。
「で、旦那。今日はその娘を自身番に突き出す前に、私の店を訪ねてくれたんですかい?」
大変棘のある物言いをした久兵衛は、尖った目元のまま朔次郎の隣をじろりと睨みつける。対する春冲はどこ吹く風で、はらはらと花をこぼす梅の木を見上げた。
「アタシが言い出したモノノケが空言なのかは、よくよく話し合ってからにいたしやしょう」
「ふん、ばかばかしい。モノノケが人を殺したなど、誰が信じるものか。おまけに、言い出しっぺが巷で噂の化物絵師ならば尚のこと、生まれたての赤子ですら信じませんよ。おおかた、気味悪がられて売れない絵の代わりに、うちを脅しつけて儲けようとでも思ったのでしょう」
「失礼な。旦那にも言いましたけどね、アタシはただ視えるだけです。モノノケ退治なんてたいそうなことはできませんから、儲けようがありませんよ」
春冲の紅い唇が、にやりと弓型に歪む。梅の花のように真っ赤な唇を見た久兵衛は、にわかに気を削がれたような顔になった。
「くだらない話はここまでにしやしょう。大和屋さん、今日アタシは忠告に来たのですよ」
「忠告?」
「次、旧鼠に殺されるのはあなたです。大和屋久兵衛さん」
久兵衛の頬がぴくりと動く。頬を引き攣らせた久兵衛は、乾いた笑声を上げた。
「よくもそんなことを言えますね。これ以上度が過ぎると、冗談抜きで自身番へ訴えますよ」
「大和屋さん。あなただって、おちかさんを焼き殺そうとした炎を実際に見たでしょう? 本当は心のどこかでモノノケを信じている。だけど、もう一つの心ではそんな恐ろしいことが現実に起こってたまるかと、怯えているんだ。だから、アタシのせいにして、無理やりモノノケから目を逸らそうとしている。だけどそれじゃあ、旧鼠の思うつぼですぜ」
「黙りなさい。胸糞の悪い。くだらない嘘を続けるのなら、私は下がらせてもらいますよ」
肩を怒らせながら立ち上がった久兵衛に朔次郎が声をかけるが、久兵衛が座り直すことはなかった。音を立てて踵を返した背中を見つめ、春冲がにやりと笑う。そして。
「――――鼠捕り」
その一言に、汚れ一つない白足袋がぴたりと止まった。
「この屋敷には鼠捕りが異様に多い。アタシはそのことが、ずっと気になっていたんですよ」
「だからそれは――」
「大和屋さん。鼠を、無残に殺しましたね?」
妖しく笑う春冲に、久兵衛が勢いよく振り返る。その勢いのまま、大きく首を左右に振った。
「違う! 私じゃない!」
「私じゃない、とは?」
どうやら、久兵衛はまんまと春冲の口車に乗ってしまったらしい。それに本人が気づいたところで、いったん口にした言霊は取り消せない。
「大和屋さん、だんまりはやめやしょうや。あの炎を見たでしょう? 旧鼠が本気になれば、蔵の油樽に引火することだってありえるんだ。そんなことをされては、大和屋さんの身代はもちろんのこと、この亀戸一帯はおしまいですぜ」
燃えやすい木造長屋続きの江戸では、放火犯は刑罰が一番重い。その昔、恋人に会いたい一心で放火事件を起こしたかの八百屋お七は、
春冲のとどめの一言に、四代目大和屋という重い身代を背負う久兵衛は、とうとう折れた。ふらふらとまるで幽鬼のように縁側まで漂うと、見事な梅の一本木をぼうっと見上げた。
「……佐吉には、困った癖がありまして」
「佐吉さん? 大和屋さんの一粒種ですね?」
「そうです。あれは普段、商人には向いていないほど気の優しい男なのですが、その困った癖ががぬるりと顔を出した時は、まるで人が変わったように残忍な気性になります」
「その、癖とは?」
尋ねる朔次郎に、久兵衛は眉をハの字にしながら答えた。
「生き物を殺して喜ぶのです」
「殺して――――喜ぶ?」
「はい。しかし、その癖が顔を出すのは、毎日というわけではありません。半月に一回だとか、ひと月に一回だとか……長い時は、半年もったことだってあります」
とにかく、佐吉は定期的に生き物――――子犬や子猫、鼠などをいたぶっては殺すことを好むらしい。それは我慢さればするだけ佐吉の心を蝕んでいくもので、だから大和屋では、佐吉の
「残念ながら、この悪癖は生まれながらのものでして。それでも佐吉が幼い頃は巷で高名な坊主や陰陽師の噂を聞きつけると、呼びやって経の一つでも上げてもらったものです」
結果は、てんで役に立たなかった。治るどころか、悪癖は佐吉が成長するごとに、より残虐性を好むようになった。
「歳を重ねて、知識がついたせいでしょうか。子供の頃などは
久兵衛は決して、佐吉が生き物を惨殺するという直接的な物言いをしない。癖が、癖が、と話す久兵衛自身も、女狂いという実に困った悪癖を持つ張本人。だからこそ、理性とは別の場所で動く意思を、共感できるのだろうか。
どんなろくでなしでも、今朔次郎の目の前にいる男は、大事な一人息子を想う父親の顔をしていた。
「それで、鼠なのですね?」
「はい。子犬や子猫を与えるより、手っ取り早いですから。それに……」
「鼠だと、罪悪感も薄まりますか?」
「……はい」
項垂れる久兵衛を、モノノケが視えるという澄んだ双眸が、じいっと見つめる。そうして、赤い唇がふいに動いた。
「竹籠」
「え?」
「若旦那の部屋にあった竹籠。あれは、珍しい鳥を入れて鑑賞するものではありませんね?」
春冲の指摘に、久兵衛の双眸が昏い色に染まる。
「お察しの通りです。あの竹籠に捕まえた生き物を入れて、佐吉に与えておりました」
「それで、そのことと長助さんは何の関わりが?」
「長助には鼠捕りにかかった鼠の捕獲や、町で野良の生き物がいたら捕まえてくるように頼んでいましたので。もちろん、長助には佐吉の悪癖を話しておりません。知り合いに生き物を保護している者がいるから、渡しているのだと言っておりました」
それで、長助は狙われたのだ。ようやく合点のいった朔次郎は、「ははあ」と相槌を打つ。
「おちかさんは?」
「おちかには近所の薬種問屋に何度か石見銀山を買わせに行かせたことがあります。あれにも佐吉のことは話していません。鼠捕りに仕掛ける餌に混ぜるためのものだとだけ話していました」
「では、最後に一つだけ。大和屋さんには厭なことを思い出させるようで悪いのですが、長助が死ぬ前に殺した鼠について、どのように殺したのか、思い出せるだけ詳しく話してください」
久兵衛の目がたじろぐ。迷うように流れた視線に朔次郎が頷けば、諦めたように大きな溜息を吐いた。
「決して気持ちのよいものではありませんからね。私だって、最初から最後まで見ていたわけではありません。知っている限りでは、何日も餌を与えずに弱らせた鼠を、火鉢にくべて焼き殺したようでした」
だから、火か。合点のいった朔次郎だが、今度は相槌を打つ気にはなれなかった。
餌を与えられずに息も絶え絶えだったところを、火にくべられて殺される。きっと、燃え死ぬ中で鼠は思ったのだろう。この恨み、決して忘れまじ。だからこそ、死して尚モノノケとして姿を現した。自らを無残な死に追いやった大和屋を祟るために。
全てを聞き終えた春冲は、若旦那に会わせて欲しいと願った。これには久兵衛がかなり難色を示したが、こたびの事件で当人から話を聞かねば上に報告ができない、と朔次郎が脅せば、渋々ながらも折れてくれた。
父親に呼ばれてやって来た佐吉は、すっきりと綺麗な面差しの若者だった。前掛けを締めていることから、店の手伝いでもしていたのだろうか。働き者でもあるらしい若者は、朔次郎の顔を見るなり、額を打ち付けんばかりに平伏した。
「こたびの件、私の不義がいたるところとなり、まことに申し訳ありませんでした……!」
畳の目に染みこむ涙の粒を見下ろした朔次郎は、頭を抱えたい気分になった。確かに佐吉のやったことはひどい。化けて出るモノノケの気持ちもわかる。だけど、果たして誰がこの若者を裁ける? 天下の悪法・生類憐みの令によって市井を苦しめた綱吉公の御代ならいざ知らず、人ではない生き物を殺したところで、御上は動けない。おまけに、それは当人の理性のいたすところではなく、突発的な衝動によるものだと言われたら、十手持ちの出る幕などなかった。
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