こぼれ梅と大和屋(二)



「ふうん……久兵衛の女狂いねえ」


 八幡宮一の鳥居のたもとに居を構える一膳飯屋いちぜんめしやで、春冲はあつあつの豆腐の味噌汁を啜っていた。一品で構わないと遠慮する春冲を差し置いて頼んだ定食の膳には、ほかほかのたけのこご飯と木の芽田楽、それから大きな梅干しが三つも乗っている。江戸の木の芽田楽は、味噌を塗った田楽の上に木の芽がちらしてあるものが一般的だが、ここの田楽は白味噌を砂糖で甘くしたものに山椒さんしょうの若芽が擦り込まれている洒落たものだ。聞けば、これは上方の木の芽田楽を参考にこしらえたものらしい。


「よろしければ、どうぞ」


 膳のものをすっかり食べつくした春冲の、豪快な食べっぷりを気に入ってくれたのだろうか。飯屋のおかみが微笑みながら運んでくれたのは、雪のようにふわふわとした酒粕に似たものだった。


「こぼれ梅! 好物です。ありがとうございます!」


 ほくほくと微笑みながら淡雪を頬張る春冲に、朔次郎は首を傾げる。


「こぼれ梅?」

「え、旦那、知らないんですかい?」

「知りませんねえ。梅の実かなにかですか?」

「いいえ、これは味醂みりんの絞り粕ですよ。ほぐした味醂粕はちょうど梅の花がこぼれているように見えるので、こぼれ梅と呼ばれるのですよ」


 ふわふわの味醂粕を指でつまんで、しげしげと眺める。ただの味醂粕を花に例えるとは、なんとも風流な。口に含むと、酒粕にはないほろりとした甘さがほどけた。


「おいしいです。お酒にも合いそうですねえ」

「こぼれ梅は子供も好きなおやつなんですけど、お酒とはねえ……。旦那は結構いける口なんですかい?」

「まあ、人並みには」

「へえ。それは今度飲み比べをしたいものですね」


 再度こぼれ梅を口に運んだところに、向かいの水茶屋で赤い前掛けがひらりと動いた。すっかり話を聞き終えていた春冲は、「あれが久兵衛の隠し子ねえ」とぼやいている。


「しかし、春冲どの。久兵衛の女好きと、長助殺しの一件が関係あるのですか?」

「それは直接本人に訊いてみないとわかりません」


 そういうわけで大和屋を訪ねることになったのだが、ここで問題が一つ。なかなか床几から立ち上がれないでいる朔次郎を、春冲が不思議そうに見下ろす。


「旦那?」

「いえ、あの……」

かわやですかい?」

「違います」

「だったら、なんです?」と言わんばかりに眉を顰める春冲を、迷い迷いながら見上げる。


 ――――ええい、ままよ。

 覚悟を決めた朔次郎が口を開くより、春冲が口火を切る方が先だった。


「ははあ、さては旦那。久兵衛から、なにかよからぬ噂でも吹き込まれましたね?」

「……」

「さしずめ、化物絵師の噂を聞いた久兵衛が、旧鼠は化物絵師が売名行為のために言い出した、口から出任せだと言い出したんですね?」


 ご明察、と言いそうになった口を慌てて閉じる。どうやら、春冲は千里眼ではなく、壁に耳と障子に目を持っているらしい。


「お察しの通りです。大変申し上げにくいのですが、久兵衛どのはあなたのことをお疑いでして……」

「根も葉もないモノノケをちらつかせて脅したアタシを、自身番にでも突き出せと言い出しましたか?」

「う……その通りです」


 小さくなる朔次郎を、春冲は鼻でフンと笑い飛ばした。


「言っておきますけどね、旦那。アタシはなにも好き好んでモノノケの絵ばかりを描いているわけじゃあありませんよ。アタシは、嘘を描けないだけなんだ。視えたものを視えたまま描いていたら、いつの間にか化物絵師なんて呼ばれるようになっただけですよ」


 人には視えないというものが視える双眸が、じろりと朔次郎を見下ろす。切れ目の美しい瞳には、人の真の姿も見透かされているようで。思わず視線を外す朔次郎を、春冲はどこか悲しそうに見つめる。


「……ま、いいや。アタシは何を言われても気にしませんよ。だから、旦那。大和屋に行きましょう」


 頷く前に、朔次郎はこぼれ梅を一掴み口に入れた。どういうわけか、今度はほんのりと苦く感じた。


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