第四幕 こぼれ梅と大和屋

こぼれ梅と大和屋(一)



 ほーほけきょう。

 と長閑にうぐいすが鳴く明朝、朔次郎は困っていた。ここのところ、だいたい困っている気がするが、今回のはとりわけまずい。気の強い娘の顔を心に描いた朔次郎は、人知れず重い溜息をついた。

 どんなに困っていても、気まずくても、朔次郎は行かねばならぬ。それが、春冲との約束だから。


「はあ……」


 と頭で理解していても、気が重いのは変わらない。富岡八幡宮に近づくにつれて、溜息が増えていく。それでもてくてくと歩いているうちに、岡場所が多く集まる一の鳥居に近づいてしまった。特別に許しを得て時の鐘を打っている富岡八幡宮の境内から、捨て鐘三ツに続いて、四ツの鐘の音が聞こえる。ぐずぐずしていても始まらない。鐘の音に励まされるようにして、背筋をぴんしゃんと伸ばした朔次郎は、どぶ板を踏んで、匂やかな風が吹く奥へと進む。見覚えのある腰高障子の前で控えめに名を呼ぶものの、あいにく中からの返答はなかった。


「春冲どの……?」


 もう一度呼びかけてみるが、やはり返事はない。出かけているのかとも思ったが、中には人の気配がある。その時、朔次郎に思い出されたのは、初対面で行き倒れていた春冲の姿。


「春冲どの……!」


 にわかに慌てた朔次郎が腰高障子を開けた途端、匂やかな風が脇を駆け抜けた。思わず目を瞑った朔次郎の鼻先に、甘い芳香が薫る。この香りは――――梅か。

 そろそろと目を開いた先にあったのは、床一面に散らばった描き損じの半紙と、墨で盛大に汚した春冲の顔。


「春冲どの?」


 声をかけるも、口に筆を咥えたまま瞑目する春冲には届いていない様子。かなり集中しているようだ。とりあえず上がり框に腰を下ろした朔次郎は、春冲が気づくのを待つことにした。

 ぐるりと家の中を見回して、気づく。この家のへっついには蜘蛛の巣がかかっている。どうやら、長いこと使われた形跡がないようだ。その他にも、行燈はもちろんのこと、火鉢や火打石に至ってまでがない。この家からは、火の元になるものが徹底的に排除されていた。この様子では、自炊など一切行っていないらしい。

 やがてかっと目を見開いた春冲は、一筆一筆を惜しむように、半紙に墨の線を描いていく。限界まで張り詰めた糸のような緊張感に耐えること、半刻。春冲が再び筆を咥え直した時には、半紙の上に見事な梅の花木と、猫のような畜生が一匹描かれていた。


「おや、旦那。来てたんですかい」


 そしてようやく、朔次郎の来訪に気づいたらしい。「来たなら来たで、声をかけてくれればよかったのに」とむくれる春冲に、朔次郎は柔い微笑で返した。


「とても集中しているようでしたので。亀戸の梅屋敷を描かれていたのですか?」

「いや、これは大和屋の庭に咲いていた梅ですよ。そしてこいつが、旧鼠」


 春冲が指したのは、梅林の中、頑丈そうな四本足を踏んじばって毛を逆立てている、猫ほどの大きさの鼠。なるほど、これが旧鼠か。想像していたのよりずっと大きい。

 素直に感心するとともに、昨夜から頭を悩ませているあることを思い出した朔次郎は、気がつけばハの字眉を作っていた。


「なんですか、旦那。不景気な顔をして」

「いや、その……」

「ははあ。さては、アタシが旦那を、岡っ引きなんぞに勝手に紹介したことを怒っていやすね?」


 言葉の割には、にやにやと楽しそうに微笑んでいる。朔次郎が端から怒っていないことなど、わかりきっているらしい。


「とんでもない。春冲どのの気遣い、大変ありがたく思っています。お蔭でとても助かりましたよ」

「旦那の役に立ったようならなによりです」

「役に立ったもなにも、雁助どのには探索事のいろはをご教授いただいている最中です。ここに来る前も、雁助どのに一つ頼みごとをしたばかりでして」


 おちかの実家は、朱引きの外の村にあるらしい。さすがに朔次郎が出向くことはできないので、足の速い下っぴきがいると言っていた雁助に、おちかの様子を見て来て欲しいと頼んできたばかりだ。


「ふうん? 思ったより、早くに打ち解けましたね」

「実に気持ちのよい御仁でしたからね。雁助どのは春冲どのの育ての親なのでしょう?」


 途端に苦虫を噛み潰したような顔をされた。


「まあ、不本意ながらもね。ちなみに、この目に最初に気づいたのも雁助です」

「へえ、そうだったのですか。もしかして、春冲どのだけではなく、雁助どのも父の探索事に力を貸してくれていたのですか?」

「ご明察。だからといって、雁助は善右衛門さまの手札を受けていなかったようですよ」


 やはりそうか。父・善右衛門から家督を譲り受けた時に、岡っ引きの話なんてこれぽっちもでなかったから、善右衛門と雁助も手札のやりとりをしていない気楽な間柄であったらしい。


「ところで旦那。ここを訪ねてくれたということは、大和屋久兵衛について調べ上げたということですね?」


 春冲が筆を置いた途端に、腹の虫がぐうと鳴った。自身の腹をまさぐった朔次郎だが、どうやら違うらしい。対する春冲は、墨のついた頬を赤らめている。


「もうすぐ昼時ですからね。何かおいしいものでも食べに行きませんか?」


 微笑みながら提案する朔次郎に、春冲は素直に同意した。


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